sleepflower音盤雑記

洋楽CDについてきわめて主観的に語るブログ。

「We Are Harlot」We Are Harlot(2015)

先日、NHK-FMで「今日は一日ハードロック/ヘヴィメタル三昧」という番組をやっていて、元々メタルは門外漢で日頃聴いているメタルというとプログレメタルとかメタルコアのようないわゆるメタルの主流から外れているようなものばかり聴いている私としては、「たまには今時のメタルのトレンドがどんなものか情報収集してみるか」と聴いてみたのだがそのラインナップがデフ・レパードだのアイアン・メイデンだのモトリー・クルーだのボン・ジョヴィだのヴァン・ヘイレンだのといった80年代メタルのビッグネームばかりで「一体今は西暦何年なんだ?」と思ってしまった。だって80年代と言うと実感がわかないかもだけど要するに「昭和時代」だよ?プレイリストの約半分を占めるのが昭和時代の曲というのはいくらなんでも後ろ向きすぎないだろうか。この「メタル三昧」の番組のターゲット層は(表向きリクエスト制を採用しているとはいえ)コテコテのメタラーではなくおそらくもっとライトな、「メタルに興味はあるけど…」というような人たちを想定していると思うしそういった層にもメタルの楽しさ・面白さが伝わるバンドを紹介したいという趣旨には共感できるものの、その代表例として取り上げられるバンドが80年代組ばかりというのは、逆に考えると「誰にとっても魅力的な曲」を現在の若手バンドが提供できてないか、そういうバンドは本当は存在するのに肝心の雑誌や音楽ライターがそれに気付いてないかのどちらかなんだと思う。いやBABYMETALを頑として自分の番組や雑誌で取り上げないところを見るとそういった存在に気付いていながら自分の立ち位置を脅かす存在として彼らを認めたくないだけなのかもしれないけど。こうなるとただの「老害」以外の何物でもない。

We Are Harlotは元Asking Alexandria(以下アスキン)のダニー・ワースノップ(Vo)とセバスチャン・バックのバンドにいたジェフ・ジョージ(g)が中心になって結成されたバンドである。ダニーは1990年生まれなので当然80年代はリアルタイムではない。従って彼の80年代ロック好きというのは「自分が経験したことのない時代」への純粋な憧れなんだろうと思う。アスキンは基本的にメタルコアのバンドなのだが、We Are Harlotはそんな彼の前歴を殆ど感じさせないド直球型80年代ハードロックである。これは全くの主観だがそもそもDanny Worsnopという名前自体が全然メタルコアっぽくない気がする。「どういうのがメタルコアっぽい名前なんだよ」と言われると答えに困るが、例えば他のメタルコアのバンドのBMTHとかBFMVの連中はもうちょっと短い名前の人が多いし(アスキンの現ヴォーカルも本名のDenis ShaforostovからDenis Stoffと短くしてるしな)それに比べるとWorsnopという苗字には往年のブリティッシュ・ハードロックのバンドにいそうな何だかクラシカルな格調高い雰囲気すら漂っている。その割にWe Are Harlotは今ひとつブリティッシュ臭がしないなと思ってバンドのプロフィールを見たら何とLAを拠点にしているアメリカのバンドだった。同じ80年代でもその影響元がNWOBHMであり、かつ引用がメタルコアの範疇にとどまるBFMVとは全く影響元もアプローチも異なっている。

We Are Harlot

We Are Harlot

 

そのWe Are Harlotのデビューアルバムがこのセルフタイトルの「We Are Harlot」である。とにかく80年代を通過している人間にとっては感涙モノの懐かしさに溢れたアルバムだ。一聴して真っ先に思い起こされるのはエアロスミスだが、その他にもデフ・レパードやガンズ&ローゼズやスキッド・ロウ等80年代ハードロックのバンド達の面影を感じさせる。しかし単なる懐古趣味ではなくアレンジや音処理にメタルコアを通過している世代ならではの現代的解釈が入っていて、そこが聴いていて古臭く感じさせないところなんだと思う。何と言っても80年代バンドの単なるコピーやパクリではなくこれらのバンド特有の語法やエッセンスをよく咀嚼し自分達の音楽の中に昇華しているところが見事である。また非常に明快かつキャッチーで魅力的なメロディーを持つ曲ばかりなので、80年代をリアルで経験していない若い世代にも楽曲の魅力は充分に伝わると思う。とにかく呆れるほどダニーの歌が上手い。技巧的なことはよくわからんが今時のヴォーカルに珍しい「歌心」のようなものが伝わってくるような気がする。80年代からちょっと時代は下るがブラック・クロウズ初来日時のクリス・ロビンソンのブルージーでソウルフルな生歌に鳥肌が立つほどの感動を覚えたことがあるがそういう類の上手さである。アスキン時代に喉を潰して濁声に変わって従来のメタルコア唱法ができなくなってしまったのをWe Are Harlotではうまく逆手にとってアメリカン・ハードロックならではのいい意味での泥臭さを出すことに成功している。今後このバンドがどのような方向に進むのか未知数だが、このアルバムで見事に再現されている、90年初頭のグランジ登場以降に失ってしまった往年のハードロックの明るさや大らかさ、楽観的な空気は今の時代にこそ求められているものかもしれない。We Are Harlotは先日のベテランバンド偏重の「メタル三昧」でも取り上げてもらった数少ない若手バンドだったけれども、多くの人にハードロックやメタルの魅力を伝えられる現代のバンドとして今後も引き続きプッシュしてもらいたいと思っている。
でもさ、やっぱりこの系の曲をやるんだったらダニーはもうちょっと痩せたほうがいいと思うんだよ。いくら「デブいヒゲのオッサンはアンタの大好物じゃん」と言われても物には限度というのがあるぞ。アクセル・ローズみたいなのを狙ってるのかもしれんがアクセルだって最初からデブかったわけじゃないからな? 

【この1曲】My Bloody Valentine「Soon」(「Loveless」(1991))

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインと言えば今では90年代初頭に英国インディーロック界を席巻したシューゲイザーの大御所として半ば神格化されたバンドであるが、ライドやラッシュ(Lush)等の同時代のシューゲイザーのバンドたちと一線を画す点があるとすれば、どこか微妙に病んでるというかろくろく陽に当たってないような不健康なオーラなんだと思う。特に1stの「Isn't Anything」におけるサイケデリックロック色の強いノイジーで歪んだギターを聴くとまるで貧血を起こしたかのような目眩に似た錯覚を覚える。さらに不気味なのはギターの凶暴さと裏腹にヴォーカルが異常に弱々しい上にメロディーが妙に無邪気で甘ったるいところである。あまり上手い例えが思い付かないのだが、人格形成において何かが決定的に欠落したまま成長してしまった大人か、逆にある面においてのみ異常に成熟してしまっている子供のようなイビツさを感じてしまう。そんなイビツさをさらにデフォルメしたのがその次のアルバム「Loveless」である。「Loveless」のその後の音楽シーンに与えたインパクトについてはもう既に何人もの評論家やライターやブロガーによって語り尽くされてると思うし実際ウェブ上にも立派なレビューがいくらでもあるのでそっちを読んでもらったほうがいいと思うが、実はこのアルバムのリリース当時の洋楽ファンの反応は現在の圧倒的な高評価に比べるとかなり地味なものだった。実際当時の全英チャートは24位止まりである。まあこんな内容の作品が仮に初登場1位だったらそれはそれで不気味だったと思うが、「Loveless」と前後してリリースされたライドの「Nowhere」(1990)が全英11位、ラッシュの「Spooky」(1992)が全英7位であったことを考えるとこの順位はちょっと解せないものがある。
これは穿った見方かもしれないが、曲が難解で取っつきにくいという以外に、彼らがアイルランド出身のバンドである、という所が地味に影響しているような気がしてならない。今でもイギリスではバンドの出身地について語られることが多いと思うが、「Loveless」リリース当時はマンチェスター・ブームのお陰で新しいバンドが登場する度に何かとその出身地が強調されることが多かった。ライドならオックスフォード、スローダイヴならレティング、ブラーならコルチェスターといった具合である。そんな「おらが町のバンド」感覚のイギリス人にとってアイルランド出身のマイブラはいささか思い入れしにくいバンドではなかっただろうか。よくよく考えてみればマイブラの曲にはよくも悪くも「英国臭さ」がない。後にブリットポップに接近するライドやラッシュとは対照的に、マイブラの音楽は特定のローカルな属性に縛られない普遍性を持っていて、そこがアメリカや日本でも多くのフォロワーを生み出した要因だと思う。

その「Loveless」においてこの「Soon」はダンスビートが強調された、少々異質なテイストを持つ曲である。最初「Loveless」を通して聴いたときに「何でこの曲が最後なんだろう」という違和感があった。元々「Glider EP」に収録されていた曲なので制作時期も微妙にずれているのだが、伝統的なロックの構造を逸脱した、まるで1枚の抽象絵画のような「Loveless」の世界観が最後の「Soon」で台無しにされているようにすら感じたからである。しかしこのシューゲイザーに当時大流行していたレイヴのグルーヴをミックスさせた、90年代初頭の英国音楽シーンを象徴するような曲があるお陰で「Loveless」が今から20年以上前の制作であることが実感されるわけで、後のポスト・ロックにも通じる先進性に改めて感嘆せざるを得ない。ハッピー・マンデーズプライマル・スクリームの曲のリミックスを手掛けたAndrew Weatherallによるファンキーでアグレッシブなリミックスも秀逸。

【この1曲】The Anchoress 「Popular」(2015)

スティーヴン・ウィルソン、アナセマ、テッセラクトと巷のプログレッシブな英国ロックファンのハート(となけなしの財産)をがっちりつかむことにかけて天才的な手腕を発揮し続けるKscopeが今回新たに送り出すのがThe Anchoressなる、ウェールズ出身のCatherine Anne Daviesのプロジェクトである。彼女はシンプル・マインズのツアーメンバーとしても知られているが、おそらく日本のUKロックファンには「マンサンのポール・ドレイパーがプロデュースした女性シンガー」と言ったほうがより通りがいいかもしれない。何しろポール自身がここ数ヶ月もの間Facebookツイッター他各種SNSを駆使してThe Anchoressを宣伝しまくっていたからな。おかげで数年前から出る出るぞと言われているポールのソロアルバムのほうはすっかりマンサンファンの間でも狼少年扱いで今や誰も話題にしていない。
Catherineは何種類もの楽器をこなすマルチミュージシャンであるだけでなく何とロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで英文学の博士号を取得しているとんでもない才女である。やはりマルチぶり(と清々しいまでのオタクっぷり)で日本のdjent界隈で絶大な人気を誇るSithu Ayeもセント・アンドリュース大の物理学修士だし最近の若手ミュージシャンは無駄に高学歴過ぎて笑うしかない。昔はマニックスのリッチーやニッキーが大卒ってだけで「ちゃんと卒業したんだスゲー」って思ったもんな。今は専業ミュージシャンとして生計を立てるのは大変な時代なようで、やはり別に副業をしようと思ったらそれなりの学歴が必要なんだろう。本当に世知辛い世の中である。

この「Popular」はThe Anchoressの来年1月リリース予定のデビューアルバム「Confessions of a Romance Novelist」からの先行シングルである。ポール・ドレイパーのプロデュースということで確かに音作りのところどころにマンサンっぽさを嗅ぎ取ることは可能だが、それ以上にCatherineという名前といい深窓の文学少女風なイメージといいやはりケイト・ブッシュと比較したくなる。英国には時々こういうお嬢の空気をまとった女性シンガーが現れるが、この人も随所にフェミニズムっぽい思想を感じるとはいえ見かけは今時清々しいまでの古風なインテリお嬢である。ただ、「Dreaming」あたりのケイト・ブッシュの狂気一歩手前のアーティスティックな情念と比較すると、どうしても経歴ゆえのアカデミックな理性のフィルターを感じてしまうしそこが現代的ともいえるし物足りないとも言える。Kscope関連で言うとやはり女性ヴォーカルということでiamthemorningやSe Delanあたりと近いところがあると思うが、よりポップで聴きやすいと思う。
その経緯から今のところマンサンの名前を出して語られることの多いThe Anchoressだが、同じウェールズ出身だしHall Or Nothingのマネジメントということでそのうちマニックスとの共演もあるかもしれん。何を隠そうこのCatherine自身がマニックスの大ファンで元々マニックスの影響で読書に親しみアカデミックな道を選んだのらしい。私の周りのマニックスファンもやたらと高学歴女性が多いんだが何故なんだろうか。三流私大卒の自分にはさっぱり理解不能である。
「なんであんたはそうやってすぐ話をマニックスに持って行くんだよ」といいたい人もいると思うが名前からしてそういう趣旨のブログなのだからしょうがないじゃん。

「Wings of Joy」Cranes(1991)

一般的に「ゴスロリ」は日本独自のサブカルチャーと言われているが、その起源をたどれば英国のゴシック文学や「不思議の国のアリス」に行きつくのだからイギリスにゴスロリ的なバンドがあってもおかしくはない。現在日本でも知名度のあるイギリスのゴスロリバンドはケイティ・ジェーン・ガーサイドを擁するクイーン・アドリーナだろう。しかし、ケイティがデイジー・チェインソーでUKインディーシーンの表舞台に登場する1992年より前に「ゴスロリ」的なバンドが既に存在していた。それが英国ポーツマス出身のクレインズ(Cranes)という、ジムとアリソンのショウ(Shaw)兄妹を中心とするバンドである。今でこそアナセマ(Anathema)のダグラス兄妹がいるが、兄弟バンドに比べると兄妹や姉弟という組み合わせのバンドはあまりいないんじゃないだろうか。このバンドも前回のコクトー・ツインズと同様、しばしばシューゲイザーのカテゴリーに入れられることが多いが、確かにシューゲイザー的なノイジーなギターが聞かれるものの、アリソンのヴォーカルが異常なほどの存在感を放っている点で、やっぱり他のシューゲイザーとはちょっと違う立ち位置にあったバンドじゃないかと思う。クイーン・アドリーナの「ゴスロリ」イメージはもっぱらケイティのルックスとキャラクターによっているところが大きいのに対し、クレインズの「ゴスロリ」性は主に音楽面に現れている。しかも「ロリータヴォイス」プラス「ゴシック・ロック」という単純足し合わせで笑ってしまうほどだ。しかしいざ曲を聴くとかなり不気味だ。以下に紹介する「Wings of Joy」は彼らの1stフルアルバム(1986年の「Fuse」はカセットオンリーなので除く)であり、ゴシック色の非常に強い作品である。

 

Wings of Joy

Wings of Joy

 

一般的にロリータヴォイスというとフレンチポップあたりの舌足らずでセクシーなウィスパーヴォイスみたいなのを想像する人も多いと思うが、このアルバムからはおよそロリータと聞いて想像される甘さやポップさは一切排除されている。ダークで憂鬱なメロディーで歌われるアリソンの幼女のような無垢なヴォーカルに重々しくのしかかるノイジーで凶暴なギターを聴くとまるで幼女監禁のような禍々しい雰囲気が漂っていて聴く時間帯を選ばないと夜にうなされそうだ。しかし密室的でどこか頽廃的な空気すら漂う幻想的な音世界は中毒性があり、怖い怖いといいつつ何度もリピートせずにはいられない魔性を秘めていると思う。
およそポップとは言い難い音楽性からか、それとも当時あまり本人たちが積極的にメディアに出たがらなかったからか、同時代にデビューしたシューゲイザーバンドたちが青田買い的に次々と日本の洋楽雑誌で取り上げられていたのに対し、クレインズはこの時期日本の洋楽誌に載ることはほとんどなかったと記憶している。私が彼らの存在を知ったのは英メロディー・メイカー誌の付録CD「Gigantic 2」というコンピレーションアルバムで、他の収録バンドもラッシュ(Lush)、ペイル・セインツ、コクトー・ツインズシュガーキューブスとなかなかに豪華だったのだが中でも一番印象に残ったのがこのクレインズだった(その次のバードランドの曲は期待外れだった(笑))のである。この時期にリリースされた作品はアルバム、EP含めジャケットデザインがいかにもゴシック的で美しくジャケ買いしたくなるものばかりだった。本作ではシングルにもなっている「Tomorrow's Tears」と最後の「Adoration」がメロディーがはっきりしていて聴きやすいと思う。
ちなみにCranesというバンド名、その幻想的で耽美な音楽性からきっと「鶴(crane)からとったんだろうと思ったら実は彼らの地元ポーツマスの港に林立するクレーン機(crane)からとったのらしい。夢もへったくれもない話だな。よって本当は「クレーンズ」と書くのが正しいんだろうけど、それじゃまるでインダストリアル系みたいだしやっぱり彼らのイメージにそぐわないよ。

「Treasure」Cocteau Twins(1984)

今から振り返ると80年代のイギリスにはやたら「耽美」なバンドが多かった。ニューロマンティクスやゴシック・ロック、ポジティブ・パンク等々。当時イギリスでは深刻な経済的不況に苦しんでおり、非現実的な世界に逃避したいという欲求が強かったんだろうと思う。もっともその「耽美」性の表出は様々であり、単に派手な化粧で誤魔化してるだけのバンドもあれば、純粋に音楽の審美性を極限まで追求したバンドもある。スコットランド出身のコクトー・ツインズは後者の代表格であり、80年代半ばのUKインディーロック(当時はニューウェイヴと呼ばれていた)界に多大な影響を及ぼしたバンドである。
元々コクトー・ツインズはゴシック・ロックから出発したバンド(バンド名自体はシンプル・マインズの曲からとられたらしい)であるが、現在ではシューゲイザーの元祖と言われることが多い。シューゲイザー全盛期の1990年初頭にそんな説が出ていた記憶は全然ないので、かなり時代が下ってからの評価だと思う。個人的にはシューゲイザーはもっとギターがノイジーだしヴォーカルはその轟音ギターの影に隠れて細々と歌われるイメージがあり、それに比べるとコクトー・ツインズエリザベス・フレイザーのヴォーカルが前面に出て圧倒的な存在感を放っているので、シューゲイザーとはやはり別物じゃないかという気もしないでもないが、マイブラやラッシュ(Lush)、スローダイヴ等代表的なシューゲイザーバンドの作風に共通する浮遊感あふれるドリーミーな世界観はコクトー・ツインズにその源流を求めてもいいとは思う。

Treasure

Treasure

 

 「Treasure」はコクトー・ツインズの3作目のアルバムであり、彼らの代表作でもある。デビュー当時はスージー&ザ・バンシーズのフォロワーと言われていた彼らだが、その後エリザベスの喉のトラブルを機に歌唱法を変え、透明感あふれるハイトーンの裏声とハスキーな地声を使い分けることで、まるで妖精か天使か女神が「天上界」と「地上界」をフワフワと行ったり来たりするような効果を生みだしている(発売当初は「神々が愛した女」という邦題がついていて、きっとこれはエリザベスのことなんだろうと思っていたが、さっき調べてみたら現在の邦題は「神々が愛した女たち」と複数形になっていて、なんか違うと思っている)。私が初めて「Treasure」からの曲をを聴いたのは某FM局の深夜の音楽番組(「FMトランスミッションバリケード」と聞いて懐かしいと思う方もいるだろう)で「Pandora」がかかっていたのを聴いて「こんな美しい世界があるなんて!」と衝撃を受けたのだった。ちなみにこのアルバムは男性や女性の名前が曲のタイトルになっているのだがそのほとんどがギリシャ神話からとられたものであるらしい(同じように人の名前を曲名にするにしても出典がゲームのVeil of Mayaの最新作とはえらい違いだな(笑))。但し冒頭の「Ivo」は所属レーベル4ADのオーナーのアイヴォ・ワッツからとられたということで、何故彼らがレーベルのボスにそんな義理を立てないといけなかったのかよくわからない。しかも無駄に美しい曲なんだよなこれが。
コクトー・ツインズの神秘性は、このようなエリザベスの特徴的なヴォーカルとロビン・ガスリーエフェクターをかけまくったサイケデリックなギターに加え、収録曲のエキゾチックなタイトルと、何を歌っているのかほとんどわからない歌詞(日本盤の歌詞カードはデタラメだと本人たちも苦言を呈していた)によるところが大きい。他に当時の4AD所属アーティストの一連のアルバムジャケットを手掛けていた23エンベロープによる審美的なアートワークも大いに貢献したと思う。しかし全英チャート7位というヒットを記録する「Heaven of Las Vegas」を最後にバンドが4ADを離れメジャーレーベルに移籍した後にリリースされた「Four Calendar Cafe」は本人たちの意向なのかレーベル側の要求なのか歌詞をはっきりと歌うようになり、それまでの彼らの最大の個性であった神秘性が損なわれることとなった。ひょっとして彼らも勝手にファンやメディアにつけられた神秘的で形而上学的でストイックなイメージで語られることにいい加減辟易していたのかもしれない。バンドは1997年に解散しているが、このようにシューゲイザーの元祖扱いされている現在、再結成を望む声は高いと思う。

「Atlantic」First Signs of Frost(2009)

もっと早い時期に出会っておけばよかったと思うバンドやアーティストは数多い。知らない間にデビューして解散していたOceansizeなどその最たる例だ。ポーキュパイン・トゥリーも私が本格的にはまる頃には活動停止していた。イエスとかジャパンみたいに全盛期の頃にまだこちらが小学生だったようなバンドは仕方ないんだが、自分の関心が別のところに向いている間に見落としたバンドを後になって見つけると「何でこれをリアルタイムで気がつかなかったんだ」と悔しい気持ちになる。私にとってFirst Signs of Frostもそんなバンドの一つである。
FSOFはロンドン出身のプログレッシブ/ポスト・ハードコア・バンドだが、現在ではTesseracTのダンが前に在籍していたことでdjent好きにもよく知られているバンドだと思う。ただTesseracTのAcleがアルバム制作にかかわっていたりするものの、このバンド自体は決してdjentではない。っていうかそもそもメタルですらない。プログレッシブなポスト・ハードコアというとあまり他に例が思いつかないのだが、以前ここでも取り上げたコヒード&カンブリアの初期の作品にとても似ているところがあると思う。当時の記事によればロストプロフェッツやフューネラル・フォー・ア・フレンドあたりと比較されるバンドだったようだ。これらウェールズ勢の中では断然BFMV派の私などは「ロスプロとFFAFならBFMVもだろ」と思ってしまうが、他の2バンドと違ってBFMVはメタルのカテゴリなんで比較対象から外れてしまうのは仕方ない。強いて言えばBFMVの1st「The Poison」の、NWOBHMっぽい部分を除外してプログレ風味を加えるとFSOFの作風に近くなりそうだ。何というか初期のBFMVに顕著だった英国らしい哀愁の漂うセンチメンタルな甘いメロディーが似てるような気がする。あとこの時期のダンの声質も若干マットに似てないでもないな。

アトランティック

アトランティック

 

 「Atlantic」はFSOFの今のところ唯一のフルアルバムである。いきなり冒頭からヴォーカルが始まる「Through the Exterior」からそのキャッチーかつスケールの大きい音世界に圧倒される。この系のバンドとしては無駄に超絶技巧な演奏が却ってツボだ。全体的に明るくて甘いメロディーとエモいクリーンヴォーカル主体の曲が多いのだが、中にはダンの後のバンドの作風につながるような曲があって興味深い。アグレッシブでヘヴィーな「Sing Sing Ain't My Style」は後のTesseracTの「One」に通じるものがあるし、最後を締めくくる叙情的な「By Virtue」はSkyharbor的だ。私は今まで「One」時代にはやや単調で荒削りだったダンのヴォーカルが、その後Skyharbor他数々のプロジェクトを通して多彩な表現力を獲得したというストーリーを描いていたのだがこのアルバムを聴くとSkyharborで顕著だったファルセットを多用する80年代ニューロマっぽいヴォーカルスタイルを既にFSOF時代に確立していたことが分かる。するとTesseracTではダンが元々持っていた表現力が抑圧されていたということなんだろうか。今から思えばアッシュ(Ashe O'Hara)も「Altered State」では苦しそうだったもんな。超絶技巧を標榜するプログレッシブ・メタルバンドは本質的にヴォーカリストに優しくない。ペリフェリーもスペンサーになるまで何人もヴォーカリストを替えているし、前回紹介したVeil of MayaのLukasも3代目だ。20年以上もバンド内外からのいじめに耐えてきた(?)ドリムシのジェイムズがいかに偉大かわかるというものだろう。
FSOFは2009年のダンの脱退以降活動は続けているものの本作に続くアルバムを出せていない。せっかく良い曲を書くバンドなのにもったいないことだ。「TesseracTなんてヴォーカルは所詮オマケなんだからダンも大人しくFSOFで活動続けてればよかったんだよ」と思わないでもないがそもそもダンがTesseracTやSkyharborで活躍してなかったら自分もFSOFを知りようがなかっただろうから困ったことだ。BFMVばかりにかまけていないでロスプロやFFAFをもう少しきちんとフォローしていればもっと早いうちに出会えたんだろうか。
全く余談だけどこのジャケット、最近のマニックスの作品っぽい。っていうかニッキーに似てるよねこの子。

「Matriarch」Veil of Maya(2015)

昔からよくあることなのだがメンバー(主にヴォーカリスト)交代で音楽性がそれまでとガラリと変わってしまうことがある。古い例ではレインボー(ロニー・ジェイムス・ディオグラハム・ボネット→ジョー・リン・ターナー)やウルトラヴォックス(ジョン・フォックスミッジ・ユーロ)などが有名だと思う(まあメンバーが全然交代しないのにどんどん音楽性が変わってしまうU2みたいなのもいるけどな)。特にメタル界隈においてその傾向が顕著なのは、バンドの「顔」がポストパンク/オルタナティブ系の場合「歌詞を書く人(主にヴォーカリスト)」であることが多いのに対しメタルバンドでは「曲を書く人(主にギタリスト)」であることが多いからヴォーカルが交代してもバンドのアイデンティティーが崩壊しないからなんだろう。しかし入ってくるのが前任と全く異質な個性を持つヴォーカリストだったりするとやはり古参ファンからは心ないバッシングを受けたりするから気の毒なことだ。
米国シカゴ出身のVeil of Mayaはdjent/デスコアバンドとして知られるバンドである。これまでに取り上げたdjent系のバンドと違いこのバンドは長年デスヴォイスオンリーで通してきてそれがファンから支持される要因であったらしい。このデス声信仰というのは一部のメタラーの間で結構根強いようでクリーンヴォーカルの曲のYouTubeのコメントを見ると決まって「何このゲイっぽい声」と書いてくる奴が現れる。メタル万年初心者の私などは「デス声なんて誰がやっても同じじゃん、クリーンのほうが歌い手の個性がわかりやすいし面白いよ」と思ってしまうのだがきっとデス声支持者の間では「クリーン=軟弱=メタル失格」みたいなイメージみたいなのがあるんだろう。昔「短髪はメタラー失格」みたいな風潮があったがそれと似たようなものだろうか。現在のBFMVのマットの短髪も随分文句言われてるようだけどあれはメタラーとしてのポリシーというより「長髪の時ほどイケメンに見えない」というのが主な理由なんじゃないかな。

Matriarch

Matriarch

 

 「Matriarch」はVoMの通算5枚目のアルバムである。新ヴォーカリストのLukas Magyarを迎えクリーンヴォーカルを取り入れた初めてのアルバムということでこのバンドの長年のファンの間では激しい賛否両論が巻き起こっているらしい。私はクリーンがあったほうがいい派なのでこの方向転換は歓迎だが問題はこのクリーンパートがペリフェリーのスペンサー・ソーテロにそっくりなんである。実際スペンサーがこのアルバムのヴォーカルアレンジに協力しているのらしいが「本当はアンタが歌ってるんじゃないの?」ぐらいの似方である。収録曲も「これ「Periphery II」に似たような曲なかった?」みたいなのが複数ある。元々ペリフェリーとは同じレーベルメイトであるし、一緒に欧州&英国ツアーもするらしいし、そもそもVoMの前作もミーシャがプロデュースにかかわっていたからペリフェリーの影響は元々強かったんだろうがここまでヴォーカルや作風がそっくりだと「ペリの劣化コピーじゃん」と文句を言いたくなる人が出てきても何の不思議もない。
でも実際は全然「劣化コピー」じゃないんである。最近のペリフェリーの作風を微妙に感じている人にはむしろこっちのほうがいいと感じている人も結構いるようだ。何しろ曲の構成がどれもカチっとしていて無駄がない。あとLukasのクリーンヴォーカルがイケメンチックなのがいい。この系のバンドにおいて「声がイケメンかどうか」というのは重要だと思う。もちろんdjent特有のザクザク感やプログレ的な複雑な曲展開も魅力的で何度も繰り返し聴いてしまう。
コンセプトも興味深い。「Matriarch」(女族長、家母長制)というタイトル、東洋風の装束の女性をフィーチュアとしたエキゾチックなジャケット、曲の大半を女性の名前(←複数のゲームキャラが出典らしい)で占められているところを見ても母性とか女性的なパワーみたいなのがモチーフになってるのかなと想像される。大体バンド名も偶然とはいえ「マヤ」という日本女性っぽい名前が入ってるし(←本当はCynicの曲名からとったらしいけど)、東洋的なものや女性的なものに対する「縁」みたいなのは前々から感じていていたんじゃないだろうか。それが象徴的に現れているのがタイトル曲「Matriarch」の東洋風の神秘的なインストだと思う(ついでにジャケットの女性のモデルも「マヤ」という名前だったら面白かったんだが実際は鈴木なつみさんという在米のプロダンサーだそう)。今回クリーンヴォーカルを導入したことと合わせ、それまでの攻撃性を維持しつつより洗練された音作りはとても好感が持てる。
ひとつ物足りない面があるとすれば今時のバンドの作品としては37分弱と非常に短いところだと思う。1曲1曲が4分以内に収まっているのでメリハリがあって退屈はしないんだが気がつくと最後の1曲だったりする。しかし下手にボーナストラックをつけると全体のバランスが崩れて却って冗長な印象になるから難しいところだ。
どの曲もキャッチーな作風でとっつきやすいが収録曲の中ではやはり「Mikasa」が突出している。メタルコア系のバンドにありがちな、デス声で散々煽った挙句唐突にクリーンで歌われるサビの部分を聴く度に「キメキメポーズ」「見得切り場面」「ドヤ顔」というイメージが想起されるのだけどこの曲の場合そのドヤり具合が気持ちいいまでにカッコいい。ジャケットモデルの鈴木嬢が1人2役で出演するPVも幻想的で美しい。