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sleepflower音盤雑記

洋楽CDについてきわめて主観的に語るブログ。

「War」U2(1983)

中学時代の一時期にU2に入れ込んでいたことがあった。多分当時の彼らの、荒涼とした曇り空に向かって熱く叫ぶような音風景が当時の私の中二病ど真ん中のメンタリティーにマッチしていたんだと思う。当時、よく聴いていた米軍放送FEN(現在のAFN)で頻繁にかかっていたのも大きかった。当時デュラン・デュランカルチャー・クラブ等華やかなルックスのバンドが多かった中、U2の無骨で硬派なところに新鮮な魅力を感じたものである。アイルランド出身というところにも物珍しさを感じていた。確かにシン・リジィやエンヤなどアイルランド出身のビッグネームはいるけれども、今でもアイルランド出身で日本で知られているレベルのバンドは英国出身のバンドに比べてそんなにいないんじゃないかと思う。初期のU2を特徴づける、冷気を帯びた鋭利な刃物のようなジ・エッジのギターの音はまさにアイルランドの荒野を思い起こさせるものであった。そのエッジの硬度の高いギターにどこか青臭くもエモーショナルで熱血一直線のボノのヴォーカルのコントラストはドラマチックで、当時の私のような中二病真っ盛りの洋楽ヲタを熱狂させるに充分であった。

War

War

 

 「War」は初期U2を代表する3rdアルバムである。まずジャケットが最強にカッコいい。およそ世の中の一切の不正や欺瞞を許さないといった風情の鋭い眼差しを持った少年の写真である。「Sunday Bloody Sunday」「New Year's Day」「Two Hearts Beat As One」等ヒットシングルも多いがその他の収録曲も軒並みレベルが高い。1st「Boy」や2nd「October」ではどちらかというとモノトーンな印象の、シンプルでストレートな曲が多かったのだが、この「War」では女性コーラスを取り入れたりよりバリエーションに富んだ作品となっている。しかし聴く者に妙な緊張感を強いる生真面目さがアルバム全体を覆っているのも事実で、上の世代からは「青臭い」と映るであろう真摯さ・潔癖さ・ナイーブさが当時の中二病全開だった私には非常に共感を覚えるものだった。実は私が夢中になってU2を聴いていたのはこの「War」までで、次の「The Unforgettable Fire」を聴いたときに「何か違う」という違和感を覚えたものである。ブライアン・イーノやダニエル・ラノワ等大御所をプロデューサーに迎えた意欲作だが、妙にアメリカ市場を意識したような音作りがピンと来なかったんだと思う。その後にロック史に残る名盤と言われる「The Joshua Tree」が来るのであるが、恐らく当時の私にはこの時期のブルージーな作品群を楽しむにはまだ充分耳が育ってなかったんだろう。それでも「Rattle and Hum」までは頑張ってついていったんだが、その次の「Achtung Baby」でついに心が折れてしまった。「Rattle~」での泥臭い米国ルーツミュージックから180度方向転換した当世風デジロックに「何考えとるんじゃワレ」と思ったものである。デジロックが嫌いなわけではないが既に当時ビッグネームであったU2がこの手の流行りの音楽をやるとダサさ倍増である。しかしこの路線は本人たちもお気に入りだったようで「Discotheque」のPVではミラーボールの下で4人一列に並んでアホなダンスを嬉々として踊る姿に頭を抱えたくなったものである。最近はまた昔のギター中心のロックに回帰しているようだけれどあの「Achtung Baby」「Zooropa」「Pop」のデジタル三部作はいったい何だったんだろう。しかしこれらの作品からU2のファンになったという人も結構多いから多分私の感性のほうがイケてないんだろう。前々から気になっていたんだがU2を1stから最新作まで一貫して好きというファンはどれぐらいいるんだろうか。単にボノのファンで「どんな曲でもボノが歌えば超オッケー」みたいな人たちなのかもしれないけど。

 

「Madonna」Madonna(1983)

私は長年オルタナ/インディー系中心にUKロックを主に聴いてきたのだけれど、女性ヴォーカリストに関してはどちらかというとメインストリーム寄りのポップスの歌手やグループのほうを聴くことが多い。以前ここで取り上げたソフィー・エリス=ベクスターは元々theaudienceというブリットポップのバンドの出身なのだけれども、自分が夢中になって聴きだしたのはその後にメジャー路線に転向したソロ時代からだからな。理由は例によって論理的には説明できないが、多分これから取り上げるマドンナの存在が大きかったからなのだろうと思う。マドンナはその大仰な名前(本名である)とキャッチーなメロディーのダンスポップとセクシーで派手なファッションで注目を浴びたのだが、こういうタイプの女性歌手は日本人受けが悪く、当時同じころにデビューしたシンディ・ローパーと比較されていた頃には自分の周りの女子学生は皆シンディ派であった。客観的に考えればシンディ・ローパーのほうが小柄で可愛いし人柄もよさそうだし何と言っても歌唱力が上である。わたしも嫌いではない。でも自分は当時のマドンナの持つアングラ的というか「胡散臭い」雰囲気のほうが面白かったんだと思う。アメリカのショービズ界における「セクシーなブロンド美女」のステロタイプなイメージをこれでもかとデフォルメしたかのような雑なブリーチにケバいメイクに「BOY TOY」と大きな文字で書かれたベルトにへそ出しミニスカートといういで立ちの当時のマドンナを見て正直「うわー、苦手」と思った人も多かったんじゃないかと思うが、当初清純派のイメージでデビューして、その後セクシーなオトナ路線に転向してファンやメディアから叩かれる女性ポップス歌手たちを見ていると、最初からビッチなイメージで登場したマドンナは賢かったんだと思う(まあデビューが24と当時の女性歌手としてはやや遅かったこともあるんだろうけど)。この彼女のキッチュでオリジナリティー(?)溢れるファッションは当時アメリカの若い女の子の間でも受けがよかったようで、マドンナのファッションを真似る「ワナビーズ」なるものが大量発生したようだ。日本でもマドンナに多大な影響を受けた女性歌手は数多くいた。ファッションまで丸パクリの本田美奈子レベッカNOKKO、そしてマドンナのキャラクターを日本向けに再構築したような松田聖子は有名な例だと思う。当時のアーティスト達にとってはマドンナのペルソナが内包する「強い女」「自由な女」の部分に共感や憧れがあったんだろう。本国でも「ポスト・マドンナ」と言われた女性歌手は数多くいたが、やはりファッションだけ真似ても意味はないのかいずれも短命に終わっている。現在最もマドンナと比較される女性歌手はレディー・ガガだろう。でもさすがにガガ様のファッションを真似る人はそうそういないだろうけども。

Madonna

Madonna

 

 この「Madonna」はマドンナのデビュー・アルバムである。一般的にはその次の2nd「ライク・ア・ヴァージン」のほうが有名だが、個人的にはマドンナの原点であるダンスポップが堪能できる本作のほうを聴くことが多かった。今でこそR&B入ったダンスポップを歌う女性歌手は当たり前のようにいるが、当時ここまでR&B色の濃いダンスポップを歌う白人女性歌手はほとんどいなかったんじゃないかと記憶している。この辺は当時マドンナのBFとして知られ、後にホイットニー・ヒューストンのプロデューサーとしても知られることになるジョン・”ジェリービーン”・ベニテスの貢献が大きいだろう。でもこのアルバムの一番の魅力はまだマドンナが本格的なスターダムにのし上がる前の粗削りというか、アングラっぽい感じというか、良い意味での素人っぽさなんだと思う。今このアルバムを聴くとやっぱりシンセサイザーの響きが80年代丸出しでチープなのだけど、それゆえに過度に作りこまれていない素のマドンナが前面に出ていて却って愛おしくなる。個人的にマドンナがトレンドセッターとしての役割を持っていたのは1992年の「Erotica」ぐらいまでだと思っていて、その後「Bedtime Stories」(1994)「Ray of Light」(1998)と立て続けに大ヒットアルバムを連発するものの、個人的にはピンと来なかったというか、逆に当時のトレンドに無批判に乗っかってしまったような印象を受けたものである。ちょうどその頃ビヨンセで有名なデスティニーズ・チャイルドスパイス・ガールズのような勢いのある女性歌手が次々と登場したことも影響があるんだろう。もちろん彼女たちに対するマドンナの影響は大だろうけども、もう最近のマドンナはどこか歌手としては現役感が薄れているのも事実である。この前来日公演で開始時間に2時間も遅れたなんていう話があったけれども、ああいうのは80年代の全盛期にやって辛うじて「しょうがないね~」と許される類のものであって今やっても「ふざけんなこのBBA」とブチ切れる人が出ても当然である。しかしこれは全くの主観だがマドンナもこの「イケ好かないBBA」のイメージは自分でも嫌いじゃないと思う。結局「強い女」「自由な女」というのはある属性の人にとっては「イケ好かないBBA」だからね。余談だが私は高校受験も大学受験も勉強している間や試験会場に行く間にマドンナのアルバムをヘビロテしたものである。結果はどちらも合格だったのでひょっとしてマドンナにはパワースポット以上のご利益があるのかもしれないよ?

「Metal Resistance」BABYMETAL(2016)

BABYMETALの魅力についてはもう既に熱心なファンの方のブログやAmazonレビューでいくらでも語られているが、やはり「アイドル」と「メタル」という組み合わせの「意外性」に尽きると思う。元々アイドルに象徴される刹那的な少女性はどちらかというとパンクと親和性の高いものだからだ。一方メタルの世界も今や女性アーティストは珍しくないがそのほとんどがセクシーな「オトナのお姐さん」達である。この点でBABYMETALは音楽性においてもアティテュードにおいても本来の意味での「オルタナティブ」な存在といえる。しかもリードをとるSU-METALのヴォーカルは全く「メタル」的でないし、YUIMETALとMOAMETALのヴォーカルに至っては純然たるお嬢ちゃまロリポップである。それ故に「感覚的に無理」という人の気持ちは理解できる。デビュー当時は「何だこれは?」と海外のメディアやメタルファンの間でも激しい賛否両論が起こっていたが、そんな論争を巻き起こすことこそロック的じゃないだろうか。しかし批判するならしっかり彼らの音楽に向き合った上で批判してもらいたいものだ。先日ピーター・バカラン、じゃなくてバラカン氏がBABYMETALについて「あんなまがい物によって日本が評価されるなら本当に世も末」などと貶していたがたまたま自分の好みじゃないタイプの音楽について「まがい物」だの「世の末」だのとよくもまあ自信満々に断言できるものだと呆れるしかない。大体ロックにまがい物も本物もあるんだろうか?だからアンタはバカランなんだよ、と言いたくもなるがそれでは同じ穴の狢になってしまうかもしれん。
彼女たちの凄さはとにかくステージの中でも外でも「プロフェッショナル」に徹していることだと思う。今のアイドルは「親しみやすさ」「等身大」「共感が持てる」を前面に出しているのに比べ、BABYMETALの場合は握手会も私生活の切り売りもないので、どこか神秘的で謎めいていてどちらかというと昭和時代の「スター」、あるいは「アニメの世界」から出てきたような非現実感が漂っている。これらは元々ロック・エンターテイメントとしては「王道」であるものだ。全盛期のデヴィッド・ボウイやKISSやクイーンだってある意味キワモノで漫画的だったではないか。大体80年代をリアルタイムで経験している私に言わせればミュージシャンにはその辺を歩いているような格好でステージに上がってほしくないんである。こっちは決して安いとはいえないお金を払ってCDを聴いたりライブに行くのだからそれ相応の「夢」を見せてもらわないと困る。
BABYMETALが予想外の絶賛をもって受け入れられたのは、現在アイドルポップ界もメタル界も共に飽和状態にあって、「何か新しいもの」「何か面白いもの」を求める空気がファンコミュニティーの間で醸成されていたからだと思う。いや、メタルに限らずロック全体が現在先細りの危機感を抱えているからこそのBABYMETALが期待感を持って受け入れられたとも言えるかもしれない。恐らく90年代のグランジ/オルタナブーム等で米英ロックシーンが盛り上がっていた頃にデビューしていたらそれこそ極東から来た「キワモノ」「企画物」で終わっていただろう。英メタル・ハマー誌や英ケラング誌がBABYMETALを何度も特集して「我々の仲間」としてメタル・コミュニティーの中に取り込んでくれるのは、80年後半以降英国で急速に下火になっていたメタルシーンを再び盛り上げるには旧来のメタルとは異質な要素を積極的に受け入れざるを得ないということを痛いほど認識しているからなのだろう。この点BABYMETALをいまだに全く無視し続ける我が国の某誌の態度は頑迷ともとれるしある意味周りに流されない確固たるポリシーの持ち主ということもできる。しかし今や某誌やバカラン(←しつこい)のような「権威的な存在」に認められないことはロック的な意味ではむしろ名誉なことなのかもしれない。
METAL RESISTANCE(通常盤)

METAL RESISTANCE(通常盤)

 

 「Metal Resistance」はそんなBABYMETALが満を持して送り出した2ndアルバムである。一言で言えばメロスピ、スラッシュ、メタルコア、ヴァイキングメタル、プログレメタル等「メタルの各サブジャンルの一番美味しい部分」をこれでもかと詰め込みまくった「メタルの見本市」的作品だ。アイドルポップ寄りだった1stに比べるとメタルファンには音的に整理されていて聴きやすいアルバムだと思う。しかも1曲1曲の完成度が高く全く捨て曲がないのは驚異的である。「まがい物」と言い切るには制作側も演奏側もメタルに対する愛情と本気度が尋常でない。特にラスト2曲の「ドリムシよりドリームシアター的な」超絶技巧プログレッシブメタル的展開は正直言って反則ですらある。ドリムシ好きの私が否定できるわけないではないか。

しかし今後この路線を推し進めてメタルとしての純度が更に上がっていくと今度は「フツーの女性メタルバンド」に落ち着いてしまう危険性も本作は孕んでいる。例えば10曲目の「No Rain, No Rainbow」など全くまっとうなメタルバラードである。SU-METALならその路線で将来進んでもそれなりに成功するかもしれんがやはりYUI&MOAのダンスとキャピっとしたお嬢ちゃまヴォーカルがないと「オルタナティブ」感はない。やはり「あわだまフィーバー」や「GJ!」みたいなアイドル歌謡曲の良い意味での「臭み」は残してもらいたいものだ。
「美人は三日で飽きる」のだ。BABYMETALにはいつまでも「何じゃこりゃ?」的なサプライズを提供するスタンスでいてもらいたいのである。まあそろそろ衣装のコンセプトは変えてもいい頃かもしれん。本人たちだってたまには全然違うタイプの衣装を着てみたいと思うんだけどな。

【interlude】このブログのスタンスについて

「こんなのブログを始めるときにやれよ」という話だが、このブログはあくまでも「いちリスナーが自分の好きなアーティストやアルバムについて超個人的な感想を語る」ためのものであって、いわゆる音楽レビューではない。音楽レビューならここよりはるかに洗練された文章力を持ち有益な情報に溢れたブログが世の中にたくさんある。そのようなブログではアーティストや作品に関する情報がより体系的に整理され、「なぜこのアルバムが良いのか(orダメなのか)」が多くのリスナーに説得力を持って伝わるように客観的かつ論理的に語られていれるが、そのような客観的/論理的思考は自分はとても苦手であるし、また誰かに説得力を持って語れるほどに特定のジャンルに精通しているわけではない。

そもそも洋楽における自分の属性がよくわからない。昔はニューウェイヴやUKインディー中心に聴いていたがブリットポップでさえも自分から積極的に聴いていたバンドは3~4つ程度とかなりの偏食だったし最近のバンドに至ってはもう名前すら分からない。どちらかというと今はHR/HMプログレを聴くことが多いが自分は決してメタラープログレッシャーではない。しかしここのブログの最近の傾向である「部外者が超いい加減にメタルやプログレを語る」スタンスは自分でも嫌いではない。

これは日頃から感じていることだが、世の中にもっと「ミーハーに語る」ブログがあってもよいのではないだろうか。多分また今後の記事で度々触れると思うが、ブログでも雑誌でもあるジャンルの音楽的純度に固執するよりは他ジャンルの要素を貪欲に取り入れた「何でもあり」的多様性を受け入れたほうがそのジャンルの長期的な発展のためには望ましい。そのほか音楽性や作品だけでなくバンドのルックスや言動を楽しく茶化したりネタにしたりするようなブログがもっとあってもよいと思う。10年以上前にはそのようなブログやサイトが結構あったと思うのだが、多分そのようなスタンスのものは真面目なファンやリスナーの批判&攻撃&嘲笑対象になりやすいから今では誰もあまり手を出したがらないのだろう。でも自分はそういうのがもっと読みたいんだよね。

 

「Polaris」TesseracT(2015)

以前の記事にも書いたとおりテッセラクト(TesseracT)は元々ペリフェリーと共にdjentというプログレッシヴ・メタルの周辺ジャンルのシーンを牽引してきた存在であるが、その発生経緯から基本的にdjentには地域性はないと考えられるにもかかわらずなぜかテッセラクトにはプログレNWOBHMからニューウェイヴそしてブリットポップまでジャンル関係なく英国出身バンドに共通する独特の憂愁と叙情性が感じられそこがdjent界における彼らの個性となっている部分じゃないかと思う。テッセラクトプログレッシヴな点は各パートがそれぞれに超絶技巧を披露するのではなく、逆に各パートが一丸となってまるで目の前に音の立方体が浮かんでくるような独特の音空間を構築する鉄壁のアンサンブルにあると言われている。楽器隊のアンサンブルが完璧すぎるのでヴォーカルはまるでオマケ扱いで実際これまでにアルバムを出すごとにヴォーカルが交替している。現在のヴォーカルは1st「One」の時と同じダニエル・トンプキンスだが、続く2nd「Altered State」ではアッシュ(Ashe O’Hara)がヴォーカルで、このアルバムがdjentの枠を超えて新世代プログレッシヴ・メタルの金字塔的作品としてメディアやファンから高い評価を受けたために、アッシュがその後音楽的相違のためにバンドを抜けて再度ダンが加入した現在も未だに海外ではアッシュの方が〜いやダンの方が〜とどっちが上かの議論が絶えない。日本でそこまで議論されてないのは元々の知名度がないからなんだろうな。自分はどっちも好きなヴォーカリストであるが、ダンの良さは歌詞をはっきり発音するのと、これまでに数多くのバンドやプロジェクトで経験を積んできた人ならではの、歌の中でエモーションとドラマを表現できる点である。どちらかというと天性の才能やセンスの持主というより勤勉な努力型のタイプで非常に日本人好みのヴォーカリストではないかと思う。余談だがルックス的にはアッシュの方がアイドル的可愛らしさもありフォトジェニックだけどライブで見たらダンの圧勝と予想。誰だね、そこで「そもそもアッシュはデブなんだからダンが圧勝なのはライブで見るまでもないよ」などと言っているのは。

Polaris

Polaris

 

Polaris」は前作「Altered State」の絶賛を受けて現代プログレの大御所Kscopeレーベルに移籍後第1弾となる通算3作目のアルバムである。元々のテッセラクトのファンだけでなく「いよいよこっちの世界に来たな、いらっしゃ〜い」と期待に胸を膨らませたKscope信者もさぞかし多かったことだろう。しかし正直言って前作の「Altered State」に比べると今回の「Polaris」は前作の「Nocturne」級のキラーチューンがないこともあって非常に地味である。少なくとも一回通して聴いただけだと全部同じ曲に聞こえて面白く感じられないんじゃないかと思う。アルバムリリースに先行して公開された「Messenger」を聴いた時に「これは何か違うんじゃないだろうか?」という不安さえ覚えたものである。そもそもプログレ愛好者はともかく一般的なメタル好きにとって「Polaris」はメタルとしての面白さがあるんだろうか?少なくともプログレッシヴメタルならではの超絶技巧を期待すると肩透かしを食らうことは間違いない。

テッセラクトが各パートの超絶技巧を個別に楽しむ類のバンドでないことは先にも述べたが、特に「Altered State」以降は冷気と硬度を持つ楽器隊のアンサンブルと、それらとは対照的な個性を持つヴォーカルとのコントラストによって作品のドラマ性を際立たせる効果を狙っているように感じている。例えば「Altered State」の場合はアッシュのヴォーカルの持つ「優しさ」「柔らかさ」であり、「Polaris」の場合はダンのヴォーカルの持つ「熱さ」「情感」である。特に「Polaris」においてはダンのメランコリックで叙情的なヴォーカルを楽器隊によってガチガチに構築される例の超立方体の枠に嵌めることで高度に複雑化された現代社会の閉塞感や先行きの見えない不安感が音の中で見事に表現されている点で80年代のRUSHの一連の作品を彷彿とさせるものである。ちなみに当初「何か違う」と感じた「Messenger」はアルバムの中で通して聴けば違和感は全くない。
しかしこの作品の良さを理解するにはやはりある程度繰り返し聴き込む必要はあると思う。いわゆる典型的な「スルメ盤」であり、第一印象はどちらかというとピンと来ないという人の方が多いんじゃないだろうか(他の方のレビューを見てもそんな感じだし)。アルバムの中で比較的キャッチーでわかりやすい曲は3曲目の「Survival」で、取っ掛かりとしてこの曲から聴いてみるのも手ではある。
とにかくヴォーカルが毎回変わるのでダンが〜アッシュが〜となりがちだが本来テッセラクトはヴォーカルを楽しむバンドではない。ダンのヴォーカルを存分に堪能したかったらSkyharborやWhite Moth Black Butterflyの方がいいと思うしアッシュならVoices From The Fuselageの方がお勧めだ。テッセラクトにおいてはヴォーカルはオマケとまでは言わんが他のdjent〜プログレッシヴメタルのバンドと差別化を図るための単なる「素材」扱いしてる感は伝わってくる。きっとヴォーカリストにとってはストレスの溜まることも多々あるんだろうな。ダンが色々別プロジェクトをやりたくなる気持ちはわからんでもないが、何だか内容被っているようなのもあるしもうちょっと数を絞ったほうがいいんじゃないかね。

【この1曲】David Sylvian「Whose Trip Is This」(「I Surrender」(1999))

音楽歴が無駄に長くなってくると「いい曲なんだけど別にこのアーティストで聴きたいわけじゃないんだよなぁ」と微妙な気持ちにさせられる曲に出会うことが増えてくる。そのアーティストがある特定のイメージで語られるタイプであればなおさらだ。ミュージシャン側にしてみればハタチかそこらでデビューした当時の音楽性のまま何十年も変わらないでいるというのはおよそ不自然な話で、やはりその間にその時の流行や本人の音楽的嗜好の変化に合わせて曲を作りたいと思うのは当然だけれど、メディアやファンはその変化に戸惑ったり不満に思ったりするものだから難しいものである。

デヴィッド・シルヴィアンは長年、耽美だとかアートだとかといった文脈で語られてきた人だけれども、ジャパン時代からの多くのファンに支持されてきた欧州耽美路線はその集大成というべき3rd「Secrets of the Beehive」で打止めとなり、その後レイン・トゥリー・クロウやシルヴィアン・フリップ等のプロジェクトやイングリッド・シャヴェイズとの結婚を経て、活動拠点をアメリカに移した後に制作された4th「Dead Bees on a Cake」はジャズやブルース、R&B等を取り入れた、成熟した大人の雰囲気漂う「歌モノ」作品となった。それまでの彼の耽美でヨーロピアンな雰囲気が好きだったファンは「こんなアメリカ臭いデビシルはなんか違う」と戸惑う人も多かったようだがデヴィッド・シルヴィアンの朗々とした低音ヴォーカルは元々この系のアダルト・コンテンポラリー路線に合っているのであって、当時のイングリッドとの幸福な結婚生活を象徴する、シルヴィアン作品として貴重な立ち位置を占めるアルバムである。この「Whose Trip is This」はその「Dead Bees〜」からのシングル「I Surrender」のカップリング曲であり、作風は非常に「I Surrender」に似通っているのだが、ヴォーカルがイングリッドのためにより甘く軽やかで洗練されたR&B曲に仕上がっている。元々は(デヴィッドが制作に全面協力した)イングリッドの2ndソロアルバムとして予定されていた「Little Girls With 99 Lives」に収録されていた曲なのだがレコード契約に結びかず結果的にこのアルバム収録曲が「I Surrender」の2種類のシングルにそれぞれ収められることになったものらしい。


Whose Trip Is This - David Sylvian

しかし、この遅れてきたスタイル・カウンシルみたいな曲を聴けば聴くほど「何もデヴィッド・シルヴィアンでこんなの聴かなくてもなあ」という違和感が募るもの事実で、しかも自分の作品に元は妻名義だった曲をちゃっかり入れてしまう公私混同ぶりに「ノロケるのもいい加減にしろ」という気持ちになってくる。スタカン時代のポール・ウェラーにも当時の妻ディー・C・リーとのラブラブ激甘デュエット曲があるけれど彼の場合元々がそういう性格なので「まあしょうがないよね(苦笑)」で済む話なんだが、私生活はともかく音楽的には過度の甘いロマンティシズムを排除したストイックなイメージのデビシルがこんなスウィートでお洒落な曲をやっても不気味なだけである。まあこの辺はリスナーの勝手な思い込みであって、むしろ当時の彼がこのような「らしからぬ」曲を作る気になった背景に目を向けるべきなんだろう。きっとこの時期の心境は最近出された彼の評伝に詳しく説明されていると思うが、後の「Blemish」における荒涼とした心象風景(イングリッドとの離婚が影響している)を思うとこの「Whose Trip is This」の明るさが却って切なくなってしまうのである。最近はすっかり抽象音楽の彼方に行ってしまった感のあるデヴィッド・シルヴィアンだが、ここまでベタじゃなくていいからたまにはメロディーのある音楽に立ち返ってもいいんじゃないかと思う。いや今の難解抽象路線でも構わないから少なくとも自分で歌ってほしいよな~この前のアルバムみたく詩の朗読向け音楽じゃなくて。

 

 

「Celebrity Skin」Hole(1998)

コートニー・ラブはホール(Hole)のヴォーカリストであり、また故カート・コバーンの妻として洋楽ファンにはよく知られている存在だが、今やお騒がせセレブとして芸能メディアにもしょっちゅう登場するし椎名林檎の曲の歌詞にも出てくるしヒステリックグラマーからコラボTシャツも出してるし日頃洋楽を熱心に聴かない人たちにも何となく名前は知ってるぐらいの知名度はある人だと思う。カートおよびニルヴァーナの熱心なファンからはどう思われているか知らんがそれ以外の人たちには「ぶっ飛んでるロック姐ちゃん」として何となくライトに憧れられてるふしがある。特に日本で若い女の子に人気があるのは、コートニー自身が日本的な「カワイイもの」や「ガーリーなもの」が好きなのと、ビッチイメージの割に女性が反感を覚えるタイプの「セクシー」という感じじゃないからなんだろう。大体デカいし骨太だし声も低い濁声で見ようによっては何だかニューハーフみたいだしな。良く言えば「媚び」がないということなんだろう。またデビュー当時からフェミニズムに敏感で来日時のインタビューでも女性記者に「あなたが記事を書くのなら応援するわ」と非常に協力的だったという逸話もあり、そんな「女性の味方」みたいなところも若い女性から支持される要因だと思われる。
世間一般的にはカートと結婚したことで知名度を上げたと見られているコートニーだが、それ以前からも彼女はオルタナ/インディー系ロックの世界では有名な存在であった。コートニーおよびホールに注目したのは本国よりイギリスのメディアのほうが先だったと記憶している。彼女が80年代英国ロックのファンで、特にエコー&ザ・バニーメンや(ジュリアン・コープで知られる)ティアドロップ・エクスプローズの追っかけをしていたエピソードも割と早くから知られていた。デビュー作「Pretty on the Inside」(1991)もソニック・ユースのキム・ゴードンのプロデュースということで話題を呼んだ(ロッキング・オンでは揶揄気味にディスられていたけどな)。しかしホールがグランジや、90年代初頭の「Riot Grrrl」に代表される女性バンドブームの範疇にとどまるバンドではないことを証明したのは今回紹介する3rdアルバムの「Celebrity Skin」である。

Celebrity Skin

Celebrity Skin

 

 ロック批評やファンの間では前作の「Live Through This」(1994)のほうが評価が高いと思うが本作「Celebrity Skin」のほうがよりポップでキャッチーなメロディーを持った曲が多くグランジはさほど聴かないという層にも充分アピールした作品である(全米9位)。作曲その他制作のかなりの部分でスマッシング・パンプキンズビリー・コーガンが関わっているため、曲の随所にメロディアスでメランコリックなスマパン節がみられるのがスマパン好きとしてはうれしい部分である。グランジ特有のノイジーでどこか投げやりな荒っぽさを残しながらも往年のハードロックのエッセンスを取り入れた、曲の一つ一つが非常にタイトな作りの、まるで古典の風格さえ漂う真っ向勝負の堂々としたロック・アルバムである。とにかく1曲目のタイトル曲「Celebrity Skin」の最初の5秒の鋭いカッターのようなイントロを聴いただけで「カッコいい!」と思ってしまう。この時期コートニーは映画「ラリー・フリント」での高評価により女優としての名声も得て対外的にも内面的にも非常に充実していており、全体的にポジティブなエネルギーが感じられるアルバムである。デビュー当時には「まるで女ホームレス」とも揶揄されたグランジ女だったコートニーがハリウッド女優然とした洗練された美貌を誇っていたのもこの時期だ。しかしこのまま「勝ち組セレブ」の人生を順調に歩む道もあっただろうにそうはならないところがコートニーであって、カートの肖像権をめぐってニルヴァーナのメンバーたちと訴訟を起こしたり肝心のホールも解散、再び薬物中毒に陥ったりその他様々な奇行により実の娘の養育権まで取り上げられる始末である。2010年に再結成し4th「Nobody's Daughter」をリリースしたもののその後のアルバムリリースの予定は不明である。個人的には(本人の事情があるとはいえ)カートみたく若くてカッコいいままで命を絶つよりもビリー・コーガンコートニー・ラブアクセル・ローズみたく年取って容姿も声も劣化してメディアやファンから叩かれてもしたたかに生き続ける人たちにリアルを感じるし共感を覚えるのだが、それもコンスタントに新作を出してツアーしてなんぼだから最近の彼女の名前を見るのがゴシップ記事ばかりで肝心の音楽活動がバンドなのかソロなのかそもそも本業は音楽なのか女優なのかよくわからないのはもうちょっと何とかならないのかとも思ってしまう。まあそんなどうしようもないところも含めてコートニーだから、ファンは全く気にならないんだろうけどね。