sleepflower音盤雑記

洋楽CDについてきわめて主観的に語るブログ。

【この一曲】Blur「Caramel」(「13」(1999))

前回の記事でブラーの「13」について少し触れたので、ついでにこのアルバムについてもう少し語ってみようと思う。前作「blur」(あるいは「無題」)は従来のブリット・ポップ路線から音楽性を大胆に転換し結果的に大成功したアルバムであった。それに比べると「13」の評判は残念ながら手放しで絶賛しているようなレビューをほとんど見たことがない。「脱ブリット・ポップ」路線は前作からの延長であるし、プロデューサーのウィリアム・オービットの個性が反映されているかというとそれも疑問だし、第一アルバムの前半と後半とで全く作風が異なるので、当時このアルバムリリース時に盛んに話題にされた「ジャスティーン(・フリッシュマン。エラスティカのヴォーカルでデーモンの長年のGF)との別れ」以上のわかりやすい売り文句が見当たらなかったのは仕方ない。これは全くの余談であるが、実はこの「13」リリースからたった半年後にデーモンと新しいGFのSuzi Winstanleyとの間に娘ミッシーが生まれたというニュースが入り、当時私が運営していたブラーのファンサイトの掲示板でも「何それ?」と戸惑うファンの書き込みが少なくなかったものである。「だったら最初から失恋の痛手とか大々的に宣伝しなくてもいいじゃんね~」ってなものだ。それ以来私はこの手の「別離の痛手」で語られる作品に対してはまず疑ってかかることにしている。翌年リリースのマンサンの3rd「Little Kix」についてやはりポール・ドレイパーの失恋がどうのという文脈で語られているのを見たときには「もう騙されないぞ」と思ったものだ(笑)。っていうかアルバム全体の作風がデーモンなりポールなり1人のメンバーの個人的な心情に影響されるのだとしたら他のメンバーにしてみれば「バンドを私物化すんな」って話になるんじゃないだろうか。この「13」の次のアルバム「Think Tank」制作中にギターのグレアム・コクソンが脱退するのであるが、デーモンとの個人的な確執が原因というよりは純粋に音楽的志向の相違だったんだろうと思う。前作「Blur」は当時USオルタナティブ/インディーロックに入れ込んでいたグレアムの主導で制作されたところがあるが、「13」はデーモンとグレアムの互いに異なる持ち味を何とか摺合せようと妥協点を図っている様子が作品から透けて見える。前半はゴスペル風の「Tender」やグレアムがヴォーカル+可愛い牛乳パックのPVで有名な「Coffee & TV」などキャッチーな曲が並ぶが後半の「Battle」~「Trimm Trabb」までは1曲につながっていると言っていいほど似たような雰囲気のダークでカオティックな曲が続くので好き嫌いが分かれるとしたらこの後半ではないだろうか。しかし1st「Leisure」にも似たようなサイケデリックな雰囲気の曲が結構あるしある意味この問題の後半のほうが原点回帰といえるんじゃないかと思う。実は私はこの後半のほうが好きで後半だけ聴いていることも多いのだが、どの曲にも混沌とした中にほのかなポジティヴィティーが感じられるし当時盛んに言われていたほどに「ジャスティーンとの別れ」が作品に影を落としているとは思えないんである。とりわけアルバム最後を締めくくる「No Distance Left to Run」の子守歌のように優しいメロディーは、それまでのダークなカオス沼に晒された耳には何やらカタルシスのようなものを与えてくれていると思う。


Blur - Caramel - 13

中でもこの「Caramel」はダークで難解で複雑怪奇な後半部においても最強にブッ飛んでる曲ではないだろうか。この曲についてマニックスのニッキーは「クラスター(←ドイツのクラウトロックのバンド)の曲名からパクってるんじゃないか」と指摘しているが、曲そのものにクラスターのそれと似てる点は殆どないにしてもこの曲の持つ空気感は当時デーモンが傾倒していたクラウトロックサイケデリック・ロックの影響を受けていることは間違いない。またCaramelはスラングでヘロインの意味を持つが、その名の通りドラッグでもやってないとまず表現できないであろう何かが憑依したような狂気一歩手前のトリップ感あふれる曲である。ここまでは前々からデーモンやグレアムが影響を公言していたジュリアン・コープシド・バレットの作風に共通するものが感じられるのだけれど、さらにわけわからないのが曲の終わる30秒前のあたりから唐突に曲調が変わってバイクの音に続いてノイジーなギターが派手に暴れまわる所である。ある意味それまでのサイケデリックでスピリチュアルな雰囲気がこの30秒間でぶち壊しじゃんと思うのだけれど、意地でも予定調和的な終わり方はしないぞという当時の彼らの妙なこだわりが感じられるように思われるのである。かのように「13」は雑多な要素が入り混じったとりとめのない内容の実にとっつきにくいアルバムなのにしっかり全英チャート1位取ってるところはさすがブラーというしかないが、それって例の「ジャスティーンとの別離」を大々的に宣伝したおかげなのだろうか?だとしたらパーロフォンも「失恋ネタはウケる」と思ってマンサンのLittle Kixにそれを流用してもおかしくないわなぁ(笑)。まあこれは全くの憶測にすぎないのだけどね。

【この一曲】Mansun「Forgive Me」(「Little Kix」(2000))

作品だけ聴けば充分に良い作品なのにその作品の背景やアーティスト本人が否定的立場をとっているために何となく微妙な評価をされているアルバムというのがあるが、マンサン(Mansun)の3rdアルバム「Little Kix」もその1つである。プログレッシブ・ロック的要素をふんだんに盛り込むことでブリットポップブームの余韻が色濃く残っていた当時のUK音楽シーンに多大なインパクトを与えた前作「Six」の複雑怪奇さとは全く対照的に、「Little Kix」はシンプルで洗練された音作りと物悲しくも美しいメロディーが特徴的なバラード主体のクラシックなポップアルバムである。歌詞もそれまでの比喩や皮肉に満ち溢れた作品群とはうって変わって何のひねりもないストレートなラブソングが多く、当時はこの唐突な路線変更について「ポール・ドレイパーの個人的な経験に基づいてる」と説明されていたために一般的には「ポールの失恋」がテーマのアルバムとされているのだが、この説明に当時から何らかの引っ掛かりを感じていたファンは少なくなかったと思う。「ポールに彼女がいたなんて」とショックを受けた女性ファンもいただろうけどそれ以上に私は「本当かよ?」と思ったものである。何故なら本作の1年前にリリースされたブラーの「13」がまさに「デーモン・アルバーンジャスティーン・フリッシュマン(エラスティカ)の別離」がテーマだったので、本作におけるポールのエピソードは物凄く二番煎じ感を受けたものである。ブラーもマンサンと同じパーロフォンの所属だったし会社の側がその路線で売ろうとでも思ってたんじゃないだろうか。また本作リリース当時のメンバー達の発言も「Little Kixは前2枚とは全く無関係だ」「前2枚と違うタイムレスなアルバムを作りたかった」「スモーキー・ロビンソンのような曲を作りたかった」の一点張りでどこか不自然というか腑に落ちない点が多く、どこかバンドの方向性に一抹の不安を覚えたものだった。最近になってポールは複数のインタビューで本作の制作背景について「レコード会社からSixの時みたいなプログレ要素は一切入れるなと厳命された。だからあんな作りになってしまった」と相当不満を露にして語ってるが、当時本作のテーマであったはずの失恋の事は全く触れてないので、失恋ネタはウソか、ウソでなかったとしてもLittle Kixでの唐突な路線変更の直接的原因ではなかったのだろうと推察される。恐らく多くのマンサンファンがこの作品を素直に受け入れられないのは(1)前作からの路線変更があまりにも唐突すぎるしその理由もどこか不自然(2)本作の作風がポールが自ら進んで選んだ路線でないのが曲群からも透けて見える、というのを直感的に感じ取っていたからじゃないかと思う。大体ポールみたいなメンタリティーの人間が失恋した時にあんなどストレートな甘甘ラブソング集など作るだろうか?ブラーの「13」なんか比じゃないダークで訳のわからんアバンギャルドな作品(しかも1曲30分以上)になるに決まってるよ(←そっちのほうが面白いなと今書いて思った)。
とはいえ、冒頭に書いた通り制作の背景を抜きにすればLittle Kixは作品としてのクオリティは充分に高いと思う。レコード会社からの「プログレ要素は一切入れない」という制限の中で精一杯ベストを尽くした作品と言えるだろう。ファンには今一つ素直に受け入れられない(?)ラブソング群は恐らく(当時メンバー達がさかんにスモーキー・ロビンソンを引き合いに出したように)かつてのモータウンのヒット曲のようなシンプルさを意識したのだろうと思う。これは無理矢理ポジティブな見方であるが本作は、前2作の随所に見られたギミックを一切排した、素のメロディーだけで人を惹き付けられる曲が書けることを証明した作品であり、ここで聴けるポールのヴォーカルもよく伸びる豊かな低音が特に素晴らしく、リスナーをして彼が一流のメロディーメイカーでありシンガーであると確信させるに充分な作品であると思う。ポールは度々「Little Kixは出すべきじゃなかった。Spooky Action(←ポールのソロ1st)こそが真のマンサンの3rd」と言うのだけれど、Little Kixもまたマンサンの音楽性を形成する一要素であり、この路線の延長にSpooky ActionやThe Anchoressの1st(収録曲の大半がポールの共作)があると思うので、あんまり否定してもらいたくないなぁというのが正直な気持ちである。

Mansun - Forgive Me
でも本作リリース当時、収録曲の「Forgive Me」を聴いて「これが一番許せないよね」と妹と言ってたのも事実。だってこれカルチャー・クラブみたいじゃん(笑)「Forgive Me」などと予め予防線張ってそうなタイトルなのも気に入らん。いや、曲自体は好きなんですよ?曲の終盤でビートルズのCome Togetherみたいなギターをこっそり忍ばせているのも彼らの反抗心が感じられていい。でもいつ聴いても後でボーイ・ジョージの声で脳内再生されちゃうんですが。

【この一曲】Manic Street Preachers「Condemned to Rock 'n' Roll」(「Generation Terrorists」(1992))

今でこそKscopeとか現代プログレとかプログレッシブメタル周りのバンドばかり聴いているけれども、このブログのタイトルが示す通り私は元々マニック・ストリート・プリーチャーズのファンなのである。「プログレ否定のパンクロックの流れを汲むマニックスとポストプログレのレーベルのKscopeって全く相容れなくない?」と思われる人もいるかもだけれど、実際Kscopeの歌姫の一人であるThe Anchoressのキャサリン(Catherine Anne Davies)もマニックスの熱心な信奉者なのだからマニックスとKscopeの両方同時に好きという人は他にも案外いるんじゃないかと思う。そもそもマニックスのパンク的なアティテュードはリッチー・エドワーズが作り出したもので、ジェームズ=ディーン・ブラッドフィールドやニッキー・ワイアなどは元々ラッシュ(Rush)のファンで過去にもラッシュの「The Spirit of Radio」のパクリ、じゃなくてオマージュみたいな曲(「Journal for Plague Lovers」)を作ってるし音楽的にはさほどプログレ的なものを否定はしていないのではないか。そもそもスティーヴン・ウィルソンの「Hand.Cannot.Erase.」のタイトル曲だってマニックスの「(It's not War)Just the End of Love」そっくりだったしな(←まだ言ってる)。元々マニックスの作品が持つメロディアスかつどこか感傷的でメランコリックな世界観は多くのKscopeアーティストたちの作品が持つ世界観と親和性が高いのだろうと思う。特にAnathemaの「Untouchable pt.1」などはジェームズが歌ってても全く違和感ないのではないか。最近はマニックスとも共通のファンの多いマンサン(Mansun)のポール・ドレイパーもKscopeに移籍してきたし、この辺の「既存のジャンルを超えた、叙情的で耽美で感傷的でメランコリックな音楽」が今後ますます充実していくのが楽しみである。

と前振りが大分長くなってしまったのであるが、そんなマニックスに私が本格的にはまったきっかけとなったのが1st「Generation Terrorists」(以下GT)の本編最後を飾る「Condemned to Rock 'n' Roll」である(実際は盤によってこの後に異なるボーナストラックが入っている)。GTはガンズ&ローゼズを始めとする80年代HR/HMやグラム・メタルに影響を受けたアルバムで、音だけ聞いただけではイギリス(正確にはウェールズだけど)出身とはイメージできない大陸的な明朗さを持つキャッチーなメロディーのハードロックが特徴であるが、メジャーコードばかりのGTの中にあってこの曲だけが唯一のマイナーコード曲なのと、6分間の演奏時間のうち計3分近くギターソロを含むインストパートなのが色々と異質な所である。当時のマニックスグラムロックやパンクにインスパイアされた派手な服装とやたら難解な歌詞と「4REAL」事件を始めとする過激な言動により他の同時代にデビューした有象無象の新人バンドと一線を画す存在感を放っていたが、肝心の演奏がヘタクソで特にリッチーなどはギタリストと名乗ってるくせに殆どギターが弾けなかった(本人も「別に上手くなりたいとも思わない」と言っていたと思う)ぐらいなのだから、そんな彼らがこの曲で目一杯本格的なHR/HMをやろうとする姿に妙な感動を覚えたものである。当時まともに楽器が弾けるのはジェームズだけと言われていたのだが、この「Condemned~」において「俺ら歌詞だけじゃないぞオラ」と言わんばかりに延々とアピールされるギターソロはマニックスの楽曲担当であったジェームズの意地でもあるんだろう。それどころかドラム以外のパートを全部ジェームズが弾いてるんじゃないかぐらいの勢いだ。マンサンの「Six」にも言えるのだがこういう、演奏力よりセンスとアティチュードとアイデア勝負の性格の強いオルタナティブ/インディーロック出身バンドが一定レベルの演奏能力を要求するメタルやプログレに果敢にチャレンジする姿勢は既存のジャンルの枠内に要領よく収まっているバンドよりも勇気があるし、その勇気に惹かれるリスナーも多いんじゃないかと思う。当時「全世界でNo.1になる2枚組アルバムを出して解散する」という例の「解散宣言」に「カッコいいまま消えることの美学」を期待していたファンも少なくなかったけれど、この「Condemned~」には「バンドを自分たちのシリアスなキャリアとして続けたい」という彼らの本音が現れていたように思えてならない。

とはいえこの曲がスタジオ技術を駆使して録音されたものであることは聴けば誰でも丸わかり(ギター2本聞こえるけどリッチーが弾けるわけないし)であったからこの曲がライブで再現できるとは当時到底考えられず実際ライブで演奏されることは数年前まで殆どなかったと記憶している。10年ぐらい前ぐらいから曲の一部をジェームズがアコースティックで演奏したりしていたが、バンド形式でフルで演奏するようになったのは恐らくここ2,3年ぐらいであろう。下の動画は2015年のカーディフ城ライブの時の演奏である。


Manic St Preachers - condemned to rock and roll - Cardiff Castle 5/6/15

ヘタクソ時代のマニックスを知る者としてはこの曲がちゃんと本人たちの演奏で再現されているのを見るだけで嬉しくなる。「この曲がやっとライブでできるようになったんだ凄いじゃーん」ってなものだ(笑)。時折高音域の所でキーを落としたり裏声を使ってはいるが殆ど元曲に忠実な演奏でこれが日本でも聴けたらマジで号泣するかもしれない。「いい歳してマジ泣きするとか痛すぎる」って思うかもだけどいざ始まったら多分マジ泣きするオジサンオバサン続出だよ?

「Atone」White Moth Black Butterfly(2017)

前回の続きみたいな愚痴話なのだけれど、実質的に同じような音楽性を持ちながらその出自ゆえにこのバンドはメタル、このバンドはオルタナと言った特定のカテゴリーに収められることで他のジャンルのファンに興味を持たれなくなってしまう状況は実にもったいないと思っている。ポール・ドレイパーが最近Kscopeと契約したことで向こうのプログレ専門誌にもインタビューやレビューが載るようになったけれども、本国でも日本でも依然として彼はMansunブリットポップのアーティストというイメージだしファンの大半もその路線を期待しているのも不幸な話だと思う。Kscope系に限らず例えばBring Me The Horizon(←いずれここで取り上げると思う)の最近の音楽性はもうほとんどオルタナティブロックと言っていいほどなのだけれど元々のオルタナティブ好きがBMTHを聴いてるかというと少なくとも日本では全然そうじゃないので、出自にとらわれずに作品に向き合うのは難しいなと痛感している。複数の異なる(かつ互いに相容れない)ジャンルの狭間に落ちてしまった故に正当な評価を受けられなかったバンドは過去に枚挙にいとまがなく、この点でもジャンル細分化の弊害は実に大きいと言わざるを得ない。

Atone

Atone

White Moth Black Butterfly(以下WMBB)はSkyharborのKeshav DharとTesseracT/ex-SkyharborのDaniel Tompkinsが中心になって結成されたポストロック~アンビエント系のプロジェクトである。2014年に自主製作の1st「One Thousand Wings」がリリースされており、そのあとに続く本作「Atone」がKscopeからの第1弾となっている。メンバーがメンバーだけに「Guiding Lights」(←Skyharborの2nd)で見られた耽美性抒情性は本作にも引き継がれているもののプログレッシブメタルの要素は全くない。一方影響元としてMassive AttackEnigmaSigur Ros等が挙げられており、どちらかというとオルタナティブロックのリスナーにアピールする音楽性を持っているんじゃないかと思っている。1stから独特の世界観と楽曲のクオリティの高さには目を見張るものがあったけれど、本作はドラマチックな展開かつ親しみやすいメロディーの曲が増え、よりとっつきやすい内容となっていると思う。Daniel Tompkinsに関しては元々First Signs of FrostやTesseracTの1stのような青春熱血系ド直球エモヴォーカルが好きだったので初めてWMBBの1stを聴いた時にはその情感溢れる耽美的な歌いまわしに「正直Danにはこういう路線は求めてないんだけどなぁ~」と思ったものだけれども、本作ではその辺がもう少しコントロールされより洗練されてきたように感じる。数々のバンドやプロジェクトに参加し作品を出すごとに表現力の幅が広がっていくDanのヴォーカルの進化ももちろん素晴らしいのだけど個人的に特に惹かれたのがJordan Turner(前作のクレジットはJordan Bethany)のドリーミーで浮遊感あふれるヴォーカルである。Kscope所属の女性シンガーはそれぞれに個性的でみんな大好きなのだけれど、Jordan嬢はLee Douglas(Anathema)やMarjana Semkina(iamthemorning)の清純な天使性にBjorkやCatatonia時代のCerys Matthewsのような少女のような妖精性が加わったマジカルな魅力を持つ声の持ち主で、本来もっと注目されるべきヴォーカリストだと思っている。とにかくWMBBはSkyharborやTesseracTのメンバーの別プロジェクトという先入観を抜きにして現代プログレからポストロック、ドリームポップ、オルタナティブロックのファンの方にも聴いてもらいたいユニットで、日本盤が出ない故に日本の洋楽雑誌に取り上げられないのは国内の洋楽シーンにとって大きな損失だとすら思っている。YouTubeにもアルバムからの音源が数曲公開されているので、興味を持った方はぜひ聴いてみてください。

「Spooky Action」Paul Draper(2017)

プログレッシブ・ロックというと日本ではどうしても例の70年代英国五大バンドやユーロロックカンタベリー系周りのイメージが強いし、NHK-FMの「プログレ三昧」みたいな番組や洋楽誌のプログレ特集でも大体この辺しか取り上げてなくてドリームシアターみたいなのは「あんなのただのメタルだろ」とバカにされるし現代プログレの第一人者スティーヴン・ウィルソンなどは存在すら無視される始末(一応この前の「プログレ三昧」では曲をかけてもらったけど、と一応フォローしておく)。大体英国プログレ専門誌で何度も表紙になっているラッシュでさえ日本ではプログレと認めたがらない空気があるしな。以前スティーヴン・ウィルソンが「Hand. Cannot. Erase.」をリリースした時にSWおよびKscopeを総力特集した「ストレンジデイズ」誌はGJであったがその後まもなく休刊してしまったしこの全く「プログレッシブ」でない現状どうにかならないんだろうか。まあ本国イギリスでも70年代プログレ原理主義者みたいなのは結構いるようでつい先日リリースされたスティーヴン・ウィルソンの「To The Bone」も80年代ポップスに影響された明るく親しみやすい作風に「彼はプログレを捨てたのか?」みたいな議論がなされているようでどこでもプログレッシャーというのは面倒くさい連中なのだということを実感させられる。

SPOOKY ACTION

SPOOKY ACTION

 

ポール・ドレイパーは90年代後半に人気を博したマンサンのヴォーカリストである。 一般的にマンサンはUKオルタナティブ/インディーロックのバンドという認識なので、このポールの初のソロアルバム「Spooky Action」のリリースが現代プログレッシブロックを牽引するKscopeレーベルからというのは少々意表を突いた選択かもしれない。元々マンサンは2nd「Six」においてプログレ的なテイストを全面的に見せてはいたけれども、その路線に当時所属のレコード会社が難色を示したらしくその次のアルバム「Little Kix」ではプログレ色が大幅に後退した王道バラード路線で本人的にも色々と不満があったようで、今回のソロアルバムが「実質のマンサンの3rd」という位置づけでもあるらしい。ポールは元々70年代プログレは特にファンというわけではなく(せいぜいピンク・フロイドの「危機」を聴いたぐらい?)、プログレ的な要素は主に後期ビートルズやプリンスなどからの影響であるということだが、Kscopeとの契約といいスティーヴン・ウィルソンとのコラボレーション(←「EP ONE」収録曲の「No Ideas」)といい、本人が現在やろうとしているタイプの音楽がいわゆる「現代プログレ」といわれる類のそれに非常に近いことは否めないと思う。本作もマンサン解散から14年という歳月を経ているという予備知識がなくても相当の時間をかけて非常によく作りこまれたアルバムであることは一回聴いただけで実感できる。冒頭から6分を超える長尺曲「Don't Poke The Bear」からして様々な時代や様式の英国ロックのエッセンスが無節操に詰め込まれた怪作である。マンサンはドミニク・チャドのギターが目玉の一つであったのだけど、本作はどちらかというと80年代ニューロマンティクスを彷彿とさせるシンセサイザーがフィーチュアされた曲が多く、その辺が聴き手の好みの分かれる所だろうと思う。一方で「Can't Get Fairier Than That」「Feel Like I Wanna Stay」のような、往年のマンサン時代を彷彿とさせるキャッチーでポップなギターロックもありどこかホッとさせられる。個人的には近年のポールの音楽上のパートナーであるThe AnchoressことCatherine Anne Daviesとの共作5曲が、The Anchoressにも共通する鬱屈したエモーションを内包したメランコリックで叙情的な作風でありながら、同時にマンサン時代からのポールの持ち味である耽美な情感が感じられて興味深い。自分一人で作るより他人の客観的な目を通したほうが、自分ではなかなか自覚しにくい本人の個性や魅力が引き出されるのかもしれない。ただし全体的に複雑で情報量が多く一回聴いただけでは掴みどころがない部分も多々あるので、Kscopeリスナーで今回初めて本作でポール・ドレイパーの作品に触れる方は、是非何度も繰り返し聴くことをお勧めする。これは全くの憶測だがスティーヴン・ウィルソンが「To the Bone」を制作するにあたり、イメージしたアーティストの一人に(はっきりとは明言されていないが最近のコラボの動きを見ても)ポール・ドレイパーもいたんじゃないかと思う。彼の80年代ニューウェイブに影響された一見ポップでありながらコアの部分は複雑で屈折した作風と、プログレオルタナティブの絶妙な境界線にいる立ち位置は、後期ポーキュパイン・トゥリーで顕著だったヘヴィー路線を離れたSWが次に目指す場所なのかなと思っている。今、「境界線」と書いたけれども、オリジナルで奇妙で複雑で面白いものという点では「プログレッシブ」も「オルタナティブ」も本質的には全く変わらないと思うし、今後のポールおよびKscopeには本質的な意味でのプログレッシブ/オルタナティブロックを提供してもらいたいものである。

【この一曲】Steve Jansen & Richard Barbieri「Sleepers Awake」(「Stone To Flesh」(1995))

私の無駄に長い音楽人生の中で後悔しているものの一つに「もっとJAPAN関連を真面目にフォローしておけばよかった」というものがある。どうもJAPANというと当時大人気だったロック漫画「8ビートギャグ」に代表されるミーハー腐女子的ノリが苦手で当時はあまり入り込めなかったのだ。デヴィッド・シルヴィアンの作品を集めだしたのが今から10年ぐらい前なのだけど、「何でしょっちゅう日本に来ていた90年代の頃にライブ見に行かなかったかなぁ~」と今頃になって後悔の嵐である。デビシルでそれなのだから他のJAPANのメンバーのミック・カーンやスティーヴ・ジャンセンやリチャード・バルビエリなど全くのノーマークで気がついたらミックは他界してるし悔やんでも悔やみきれない。この辺をJAPAN解散直後からちゃんと追っていたらもっと早くにポーキュパイン・トゥリーに出会えたのかなぁと思うと悔しさ倍増である。

「Stone To Flesh」はジャンセン&バルビエリ名義では3枚目のアルバムとなるが、その他にもこの2人はDolphin Brothers名義のアルバムもあるしミック・カーン加えてJansen/Barbieri/Karn名義でも作品を出しているので、実際は何枚目のアルバムといっていいのかよくわからない。いずれにせよ全部持っている人は相当なJAPANオタだと思う。デビシルの作品は全部持ってますという人でも、JBK関連の作品までコンプリートしている人はなかなかいないんじゃないかという気がする。現在これらの作品の大半が廃盤になっているが、「Stone To Flesh」は一昨年にKscopeからリイシューが出たため比較的手に入りやすいと思う。その他の作品も個々のソロアルバムも含め今Kscopeがぼちぼち再発を頑張っているので今後に期待したい。


Mick Karn with Richard Barbieri, Steve Jansen and Steve Wilson - Sleepers Awake live

これはジャンセン&バルビエリがミック・カーンやスティーヴン・ウィルソンと共に1997年に赤坂BLITZで行われたLUNA SEASUGIZO主宰のAbstract Dayというイベントに出演した時のライブである。「Sleepers Awake」は躍動感あふれるインスト曲で「Stone To Flesh」の中でも出色の曲だが、なぜこのバージョンをあえて選んだのかというととにかくミック・カーンのプレイが素晴らしいからである。正直言ってミックのベースとスティーヴン・ウィルソンのギターが突出して過ぎて肝心のジャンセン&バルビエリの演奏を見落としがちになってしまうのが難点だが、この鬼気迫る白熱した演奏を聴くと「レイン・トゥリー・クロウとはいったい何だったのか」と思ってしまいたくなる。元JAPANのメンバーが再集結したことで話題を呼んだこのプロジェクトは1989年から制作を開始し1991年にセルフタイトルのアルバムがリリースされたが、JAPANというよりはそれまでのデビシルのソロの延長みたいな作品だったし彼のバックバンド扱いされた他のメンバーはさぞかし不満だろうなと思っていたらやはり当時のロッキング・オンのインタビューでデビシル除く3人たちがデビシルの事をボロカス貶していて「あーやっぱり」と思ったものである。この辺のドロドロ話はミック・カーン自伝やデヴィッド・シルヴィアン伝(「On the Periphery」邦訳)に詳しいが、このプロジェクトが転機となって元JAPANのメンバーの活動がそれぞれ新たなフェーズに入った印象がある。今から思うとデビシルロバート・フリップと共演していた時期に、他のメンバーたちはスティーヴン・ウィルソンと共演しているという事実が、何か不思議な縁のようなものが感じられて仕方がない。もっとも当時のSWは上の動画では名前も出してもらえないほど無名だったけどな(笑)しかしこの時に赤坂BLITZの彼らのライブを見に行った人たちは絶対勝ち組だと思う。当時はブリットポップ全盛期で自分もそっちに夢中だったからこんな貴重なライブやってたなんて全然知らなかったよ(涙)

「The Gift」The Jam(1982)

私がジャムというバンドの存在を知ったのは、先日のポリスの記事で触れたように小学4年だか5年生の頃で、近くのレコード屋でポリスのLPを物色していた時に同じコーナーに入っていたのがジャムだったからなのだが、彼らの曲を初めて聞いたのはそれから数年後、ラジオ日本の「全英TOP20」で当時全英チャートNo.1曲として紹介された「Town Called Malice」である。当時ジャムは本国において絶大な人気を誇っていたようで、この時期に行われたNMEの読者人気投票においては各部門殆ど総ナメ状態であった。特にポール・ウェラーに対する人気ぶりは最早宗教で男性シンガー部門とかギタリスト部門とかソングライター部門みたいなまともなものからベスト・ドレッサー、ベスト・ヘアカット、果ては「Most Wonderful Human Being(最も素晴らしい人物)」なるネタみたいな部門に至るまですべてポール・ウェラーが1位という、「NMEってジャムのファン会報誌だったんですね解ります」「あんたら何でもジャムとかポール・ウェラーとか書けばいいと思ってるでしょ」とツッコみたくなる状況であったことは確かである。日本において当時ジャムがどれだけ人気だったかはよくわからないが、当時の「音楽専科」誌の表紙になるぐらいは人気だったんだろうと思う。しかしそれよりはブリットポップに多大な影響を与えたネオモッズの代表格としてのジャムを後追いで聴いてファンになった人のほうが多いんじゃないかと個人的には感じている。まあ確かにジャム時代のポール・ウェラーは若くてイケメンだったしな(笑)ジャム解散時点のポール・ウェラーはまだ24歳で、当時もまだ若いのによくそんな大変な決断をしたなと驚いたものだがジャパン解散時のデヴィッド・シルヴィアンも24歳だったしおそらくデビュー時の18歳から24歳までの期間というのはアーティストとしての成長曲線が他の時期に比べても恐ろしく急勾配的に伸びていくものなのだろう。最近のミュージシャンは大卒が多いせいかデビュー時にはすでにある程度完成されている所があってかつてのポール・ウェラーデビシルのような劇的な音楽的変化を目の当たりにする機会があまりなくなってしまったのは残念なことである。

ザ・ギフト

ザ・ギフト

 

 「The Gift」はジャムの6枚目のアルバムにして最後のスタジオ録音盤である。前作までの勢いを受けて初の全英1位を獲得したが現在の本国における評価は3rd「All Mod Cons」から前作「Sound Affects」あたりまでと比べるとやや微妙のようだ。このアルバムのリリースまもなくして解散したこともあるだろうが多分彼らが蛇蝎のように嫌うスタイル・カウンシルっぽさが既に現れ始めているからというのも大きそうだ。しかしスタカンが好きな人にとっては多分本作が一番とっつきやすいジャムのアルバムである。モータウン風味の「Town Called Malice」はもちろんのこと、「Precious」などはスタカンの「Internationalists」を彷彿とさせるし、ブルース・フォクストンのファンキーなベースが冴えるインスト「Circus」、ラテン風味の「The Planner's Dream Goes Wrong」など様々なジャンルに影響を受けたバラエティーに富んだ楽曲が揃っている。一方で「Running On The Spot」「Carnation」のようなジャムらしい真っすぐでキャッチーな曲も健在で、やはりジャムとスタカンの橋渡し的な位置づけのアルバムと言っていいと思う。ジャムを解散させた理由は当時ポール・ウェラーがやりたかったタイプの音楽に他のメンバーが(演奏能力的に)ついていけなくなったから、と言われているが本作を聴く限りそこまで気にならない。むしろファンやメディアの期待する「ジャム的なもの」が既にガッチリ確立されてしまっていて、彼が新たにやろうとしていた音楽がジャムという既存の(かつ特定のイメージを持つ)フォーマットの中でやるのは潔くない、という判断だったんじゃないだろうか。その辺がウェラーらしい潔癖さともいえるし不器用さともいえるが、後に彼がスタイル・カウンシルで当時流行りのハウス・ミュージックを丸々アルバムの中でやろうとしてレコード会社に却下されてそれがスタカンの解散を引き起こしたことを思えば人気絶頂のカッコいいイメージのままジャムを解散させたのはむしろ良い判断だったと言わざるを得ない。しかし既に40年以上にわたる音楽キャリアの最初の数年間ばかりがいまだに話題にされる状況というのは本人的にはどう思ってるんだろうか。ついこの前も新譜を出したばかりのポール・ウェラーがインタビューで「ジャムが再結成すると思うなんてバカか?」とキレてたようだけど、いまだにファンやメディアからジャムを引き合いに出されることはソロアーティストとしての自分のキャリアを全否定されているようで面白くないんだと思う(その割に自分のライブでジャム時代の曲を演るじゃんかというツッコミは置いておくとしても)。先日私がツイッターで実施したアンケートもジャムやスタカンに比べてソロが一番いいという人が有意に少なかったもんな。理由は色々あると思うが一言で言って色んな意味でソロ作品は「渋すぎる」んだと思う。特に後追いでジャムやスタカンのファンになった若い世代のファンだとスタカンの面影のある1stはともかくそれ以降の作品群の米国南部音楽に影響を受けた泥臭くも渋いカッコよさがピンと来ないんじゃないだろうか。前回の記事じゃないけど私も初めて「Wild Wood」を聴いたとき「何でそっちに行っちゃうんだよ」って思ったからね。でもやっぱりポール・ウェラーは現在進行形でカッコいいと思うよ。