sleepflower音盤雑記

洋楽CDについてきわめて主観的に語るブログ。

「Celebrity Skin」Hole(1998)

コートニー・ラブはホール(Hole)のヴォーカリストであり、また故カート・コバーンの妻として洋楽ファンにはよく知られている存在だが、今やお騒がせセレブとして芸能メディアにもしょっちゅう登場するし椎名林檎の曲の歌詞にも出てくるしヒステリックグラマーからコラボTシャツも出してるし日頃洋楽を熱心に聴かない人たちにも何となく名前は知ってるぐらいの知名度はある人だと思う。カートおよびニルヴァーナの熱心なファンからはどう思われているか知らんがそれ以外の人たちには「ぶっ飛んでるロック姐ちゃん」として何となくライトに憧れられてるふしがある。特に日本で若い女の子に人気があるのは、コートニー自身が日本的な「カワイイもの」や「ガーリーなもの」が好きなのと、ビッチイメージの割に女性が反感を覚えるタイプの「セクシー」という感じじゃないからなんだろう。大体デカいし骨太だし声も低い濁声で見ようによっては何だかニューハーフみたいだしな。良く言えば「媚び」がないということなんだろう。またデビュー当時からフェミニズムに敏感で来日時のインタビューでも女性記者に「あなたが記事を書くのなら応援するわ」と非常に協力的だったという逸話もあり、そんな「女性の味方」みたいなところも若い女性から支持される要因だと思われる。
世間一般的にはカートと結婚したことで知名度を上げたと見られているコートニーだが、それ以前からも彼女はオルタナ/インディー系ロックの世界では有名な存在であった。コートニーおよびホールに注目したのは本国よりイギリスのメディアのほうが先だったと記憶している。彼女が80年代英国ロックのファンで、特にエコー&ザ・バニーメンや(ジュリアン・コープで知られる)ティアドロップ・エクスプローズの追っかけをしていたエピソードも割と早くから知られていた。デビュー作「Pretty on the Inside」(1991)もソニック・ユースのキム・ゴードンのプロデュースということで話題を呼んだ(ロッキング・オンでは揶揄気味にディスられていたけどな)。しかしホールがグランジや、90年代初頭の「Riot Grrrl」に代表される女性バンドブームの範疇にとどまるバンドではないことを証明したのは今回紹介する3rdアルバムの「Celebrity Skin」である。

Celebrity Skin

Celebrity Skin

 

 ロック批評やファンの間では前作の「Live Through This」(1994)のほうが評価が高いと思うが本作「Celebrity Skin」のほうがよりポップでキャッチーなメロディーを持った曲が多くグランジはさほど聴かないという層にも充分アピールした作品である(全米9位)。作曲その他制作のかなりの部分でスマッシング・パンプキンズビリー・コーガンが関わっているため、曲の随所にメロディアスでメランコリックなスマパン節がみられるのがスマパン好きとしてはうれしい部分である。グランジ特有のノイジーでどこか投げやりな荒っぽさを残しながらも往年のハードロックのエッセンスを取り入れた、曲の一つ一つが非常にタイトな作りの、まるで古典の風格さえ漂う真っ向勝負の堂々としたロック・アルバムである。とにかく1曲目のタイトル曲「Celebrity Skin」の最初の5秒の鋭いカッターのようなイントロを聴いただけで「カッコいい!」と思ってしまう。この時期コートニーは映画「ラリー・フリント」での高評価により女優としての名声も得て対外的にも内面的にも非常に充実していており、全体的にポジティブなエネルギーが感じられるアルバムである。デビュー当時には「まるで女ホームレス」とも揶揄されたグランジ女だったコートニーがハリウッド女優然とした洗練された美貌を誇っていたのもこの時期だ。しかしこのまま「勝ち組セレブ」の人生を順調に歩む道もあっただろうにそうはならないところがコートニーであって、カートの肖像権をめぐってニルヴァーナのメンバーたちと訴訟を起こしたり肝心のホールも解散、再び薬物中毒に陥ったりその他様々な奇行により実の娘の養育権まで取り上げられる始末である。2010年に再結成し4th「Nobody's Daughter」をリリースしたもののその後のアルバムリリースの予定は不明である。個人的には(本人の事情があるとはいえ)カートみたく若くてカッコいいままで命を絶つよりもビリー・コーガンコートニー・ラブアクセル・ローズみたく年取って容姿も声も劣化してメディアやファンから叩かれてもしたたかに生き続ける人たちにリアルを感じるし共感を覚えるのだが、それもコンスタントに新作を出してツアーしてなんぼだから最近の彼女の名前を見るのがゴシップ記事ばかりで肝心の音楽活動がバンドなのかソロなのかそもそも本業は音楽なのか女優なのかよくわからないのはもうちょっと何とかならないのかとも思ってしまう。まあそんなどうしようもないところも含めてコートニーだから、ファンは全く気にならないんだろうけどね。

「Fantastic」Wham!(1983)

現在大人気のワン・ダイレクションのような複数の若くルックスのよい男性ヴォーカルによってなるボーイズグループ、またはボーイバンドという形態の原型は諸説あるが、個人的には後にソロアーティストとして成功するジョージ・マイケルを輩出したワム!がその直接的な元祖だと思っている。ワム!といえば今では「ラスト・クリスマス」のイメージが一番強いと思うし、逆にこの曲があまりにも有名なために今ではワム!のほうが「ラスト・クリスマスを歌ってる人達」扱いかもしれない。その他のワム!の代表曲といえばやはり西城秀樹郷ひろみのカヴァーで知られている「ケアレス・ウィスパー」であろう。いずれもジョージ・マイケルの甘いヴォーカルがフィーチュアされた、洗練された都会派ポップである。あまりにジョージ・マイケルの存在感が突出してしまったので今では「ワムってジョージとマイケルのバンドだよね」というネタが定着してしまいアンドリュー・リッジリーの立場は?と突っ込みたくなる。
しかしワム!は元々そんな甘口ポップばかり歌ってた連中ではなかったんである。デビュー当時の彼らは黒い革ジャンがトレードマークのやんちゃな悪ガキというかヤンキー入った柄の悪い兄ちゃんというイメージであった。初期の曲に「Bad Boys」「Young Guns」というのがあるが当時のワム!はまさにBadでYoungを体現する存在だった。ちなみに今ではすっかりオマケ扱いされているアンドリュー・リッジリーであるが、デビュー当時はアンドリューのほうがどちらかというとアイドルでジョージの方はどこかモサくてしかも太っていたこともあってちょいブサ扱いだった。そのちょいブサのほうがリードヴォーカルで目立つことでバランスをとっていたとも言える。しかし人気が出るにつれてジョージも段々自信を持ったのか、「ケアレス・ウィスパー」の頃にはすっかり垢抜けたポップスターと化していき、それと相反するようにアンドリューの存在感が薄れてしまったのは初期からワム!を知っていた者にとっては複雑なものがあった。これは個人的印象だが特に「デュオ」においてはどちらか一方だけがソロで活躍できてしまうぐらいの個性と存在感を持ってしまうとその体制を長く維持し続けることが難しくなる。例えばホール&オーツの場合ダリル・ホールがいくら金髪長身のイケメンでもソロとしては個性が弱く、やはりジョン・オーツというダリルとは全く正反対の個性を持つパートナーがいるからこそデュオとしてうまく機能しているんだと思う。ペット・ショップ・ボーイズにしてもニール・テナント単独だとその辺のただのイギリス人だが、もう一人「単独だとただのその辺の人」たるクリス・ロウが側にいることで何となくデュオとしてのバランスが保たれてる気がする。ワム!の悲劇は活動している内に次第にジョージ・マイケルがソロでも充分にやっていけるだけの存在感をを持ってしまったところにあるんだろう。こういうのはグループ結成時には本人たちも気づかなかったりするんで回避するのはなかなか難しいものがある。アンドリューも自分の持ち歌があればよかったんだろうがあのジョージの卓越した歌唱力と比較されるのは誰でも嫌だったんじゃないだろうか。 

Fantastic

Fantastic

 

 「Fantastic」はワム!のデビューアルバムであり、当時の彼らが入れ込んでいたR&Bやディスコサウンドが全面的にフィーチュアされた、若さと良い意味でのアグレッシブさに溢れた作品である。当時、ポスト・パンクのバンドでレゲエやファンクを取り入れたバンドは既にいくつか存在していたが、これらのバンドがあくまでロックをベースにしていたのに対し、ワム!が最初からR&Bを音楽的基盤としていたことはミラクルズのカヴァー(「Love Machine」)を含むこの「Fantastic」を聴けば明らかである。この後の大ヒット作「Make It Big」と比べると似たような曲が多く粗削りで未熟なところもあるのだが、当時弱冠20歳の怖いもの無しの勢いと眩しいまでのエネルギーとポジティヴィティーはこの「Fantastic」の一番の魅力である。個人的にワム!はこの時期の「やんちゃな若者」のイメージの方が強いので後の「ケアレス・ウィスパー」の妙に洗練された大人びた雰囲気は「何か無理してるんじゃないの?」と違和感を覚えたものである。大体このPVのジョージのヘアスタイリングだけで数百万円というバブリーさはデビュー当時の彼らが最も反抗していたものじゃないだろうか。

「Wham Rap」「Bad Boys」「Young Guns」とノリのよいシングルを多数擁する「Fantastic」だが、個人的に何度も繰り返し聴くのが「Club Tropicana」である。当時ニューロマンティクスと共に80年代ロンドンのクラブ・シーンで流行していたファンカラティーナ(ラテン音楽のフレーバーの入ったファンク)を取り入れた、底ぬけに明るく享楽的でノリノリの曲だ。「ラスト・クリスマスやケアレス・ウィスパーだけがワム!じゃないぞ」と言いたくなる初期の名曲だと思う。
例によって余談だが、この「Fantastic」のプロデュースを手掛けたのはマニックスの「Generation Terrorists」のプロデューサーでもあるスティーヴ・ブラウンである。何で当時のマニックスワム!のプロデューサーを選んだのか不明だがマニックスも後に「ラスト・クリスマス」をカヴァーしてるし単にワム!が好きなだけなのかもしれないな。

「We Are Harlot」We Are Harlot(2015)

先日、NHK-FMで「今日は一日ハードロック/ヘヴィメタル三昧」という番組をやっていて、元々メタルは門外漢で日頃聴いているメタルというとプログレメタルとかメタルコアのようないわゆるメタルの主流から外れているようなものばかり聴いている私としては、「たまには今時のメタルのトレンドがどんなものか情報収集してみるか」と聴いてみたのだがそのラインナップがデフ・レパードだのアイアン・メイデンだのモトリー・クルーだのボン・ジョヴィだのヴァン・ヘイレンだのといった80年代メタルのビッグネームばかりで「一体今は西暦何年なんだ?」と思ってしまった。だって80年代と言うと実感がわかないかもだけど要するに「昭和時代」だよ?プレイリストの約半分を占めるのが昭和時代の曲というのはいくらなんでも後ろ向きすぎないだろうか。この「メタル三昧」の番組のターゲット層は(表向きリクエスト制を採用しているとはいえ)コテコテのメタラーではなくおそらくもっとライトな、「メタルに興味はあるけど…」というような人たちを想定していると思うしそういった層にもメタルの楽しさ・面白さが伝わるバンドを紹介したいという趣旨には共感できるものの、その代表例として取り上げられるバンドが80年代組ばかりというのは、逆に考えると「誰にとっても魅力的な曲」を現在の若手バンドが提供できてないか、そういうバンドは本当は存在するのに肝心の雑誌や音楽ライターがそれに気付いてないかのどちらかなんだと思う。いやBABYMETALを頑として自分の番組や雑誌で取り上げないところを見るとそういった存在に気付いていながら自分の立ち位置を脅かす存在として彼らを認めたくないだけなのかもしれないけど。こうなるとただの「老害」以外の何物でもない。

We Are Harlotは元Asking Alexandria(以下アスキン)のダニー・ワースノップ(Vo)とセバスチャン・バックのバンドにいたジェフ・ジョージ(g)が中心になって結成されたバンドである。ダニーは1990年生まれなので当然80年代はリアルタイムではない。従って彼の80年代ロック好きというのは「自分が経験したことのない時代」への純粋な憧れなんだろうと思う。アスキンは基本的にメタルコアのバンドなのだが、We Are Harlotはそんな彼の前歴を殆ど感じさせないド直球型80年代ハードロックである。これは全くの主観だがそもそもDanny Worsnopという名前自体が全然メタルコアっぽくない気がする。「どういうのがメタルコアっぽい名前なんだよ」と言われると答えに困るが、例えば他のメタルコアのバンドのBMTHとかBFMVの連中はもうちょっと短い名前の人が多いし(アスキンの現ヴォーカルも本名のDenis ShaforostovからDenis Stoffと短くしてるしな)それに比べるとWorsnopという苗字には往年のブリティッシュ・ハードロックのバンドにいそうな何だかクラシカルな格調高い雰囲気すら漂っている。その割にWe Are Harlotは今ひとつブリティッシュ臭がしないなと思ってバンドのプロフィールを見たら何とLAを拠点にしているアメリカのバンドだった。同じ80年代でもその影響元がNWOBHMであり、かつ引用がメタルコアの範疇にとどまるBFMVとは全く影響元もアプローチも異なっている。

We Are Harlot

We Are Harlot

 

そのWe Are Harlotのデビューアルバムがこのセルフタイトルの「We Are Harlot」である。とにかく80年代を通過している人間にとっては感涙モノの懐かしさに溢れたアルバムだ。一聴して真っ先に思い起こされるのはエアロスミスだが、その他にもデフ・レパードやガンズ&ローゼズやスキッド・ロウ等80年代ハードロックのバンド達の面影を感じさせる。しかし単なる懐古趣味ではなくアレンジや音処理にメタルコアを通過している世代ならではの現代的解釈が入っていて、そこが聴いていて古臭く感じさせないところなんだと思う。何と言っても80年代バンドの単なるコピーやパクリではなくこれらのバンド特有の語法やエッセンスをよく咀嚼し自分達の音楽の中に昇華しているところが見事である。また非常に明快かつキャッチーで魅力的なメロディーを持つ曲ばかりなので、80年代をリアルで経験していない若い世代にも楽曲の魅力は充分に伝わると思う。とにかく呆れるほどダニーの歌が上手い。技巧的なことはよくわからんが今時のヴォーカルに珍しい「歌心」のようなものが伝わってくるような気がする。80年代からちょっと時代は下るがブラック・クロウズ初来日時のクリス・ロビンソンのブルージーでソウルフルな生歌に鳥肌が立つほどの感動を覚えたことがあるがそういう類の上手さである。アスキン時代に喉を潰して濁声に変わって従来のメタルコア唱法ができなくなってしまったのをWe Are Harlotではうまく逆手にとってアメリカン・ハードロックならではのいい意味での泥臭さを出すことに成功している。今後このバンドがどのような方向に進むのか未知数だが、このアルバムで見事に再現されている、90年初頭のグランジ登場以降に失ってしまった往年のハードロックの明るさや大らかさ、楽観的な空気は今の時代にこそ求められているものかもしれない。We Are Harlotは先日のベテランバンド偏重の「メタル三昧」でも取り上げてもらった数少ない若手バンドだったけれども、多くの人にハードロックやメタルの魅力を伝えられる現代のバンドとして今後も引き続きプッシュしてもらいたいと思っている。
でもさ、やっぱりこの系の曲をやるんだったらダニーはもうちょっと痩せたほうがいいと思うんだよ。いくら「デブいヒゲのオッサンはアンタの大好物じゃん」と言われても物には限度というのがあるぞ。アクセル・ローズみたいなのを狙ってるのかもしれんがアクセルだって最初からデブかったわけじゃないからな? 

【この1曲】My Bloody Valentine「Soon」(「Loveless」(1991))

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインと言えば今では90年代初頭に英国インディーロック界を席巻したシューゲイザーの大御所として半ば神格化されたバンドであるが、ライドやラッシュ(Lush)等の同時代のシューゲイザーのバンドたちと一線を画す点があるとすれば、どこか微妙に病んでるというかろくろく陽に当たってないような不健康なオーラなんだと思う。特に1stの「Isn't Anything」におけるサイケデリックロック色の強いノイジーで歪んだギターを聴くとまるで貧血を起こしたかのような目眩に似た錯覚を覚える。さらに不気味なのはギターの凶暴さと裏腹にヴォーカルが異常に弱々しい上にメロディーが妙に無邪気で甘ったるいところである。あまり上手い例えが思い付かないのだが、人格形成において何かが決定的に欠落したまま成長してしまった大人か、逆にある面においてのみ異常に成熟してしまっている子供のようなイビツさを感じてしまう。そんなイビツさをさらにデフォルメしたのがその次のアルバム「Loveless」である。「Loveless」のその後の音楽シーンに与えたインパクトについてはもう既に何人もの評論家やライターやブロガーによって語り尽くされてると思うし実際ウェブ上にも立派なレビューがいくらでもあるのでそっちを読んでもらったほうがいいと思うが、実はこのアルバムのリリース当時の洋楽ファンの反応は現在の圧倒的な高評価に比べるとかなり地味なものだった。実際当時の全英チャートは24位止まりである。まあこんな内容の作品が仮に初登場1位だったらそれはそれで不気味だったと思うが、「Loveless」と前後してリリースされたライドの「Nowhere」(1990)が全英11位、ラッシュの「Spooky」(1992)が全英7位であったことを考えるとこの順位はちょっと解せないものがある。
これは穿った見方かもしれないが、曲が難解で取っつきにくいという以外に、彼らがアイルランド出身のバンドである、という所が地味に影響しているような気がしてならない。今でもイギリスではバンドの出身地について語られることが多いと思うが、「Loveless」リリース当時はマンチェスター・ブームのお陰で新しいバンドが登場する度に何かとその出身地が強調されることが多かった。ライドならオックスフォード、スローダイヴならレティング、ブラーならコルチェスターといった具合である。そんな「おらが町のバンド」感覚のイギリス人にとってアイルランド出身のマイブラはいささか思い入れしにくいバンドではなかっただろうか。よくよく考えてみればマイブラの曲にはよくも悪くも「英国臭さ」がない。後にブリットポップに接近するライドやラッシュとは対照的に、マイブラの音楽は特定のローカルな属性に縛られない普遍性を持っていて、そこがアメリカや日本でも多くのフォロワーを生み出した要因だと思う。

その「Loveless」においてこの「Soon」はダンスビートが強調された、少々異質なテイストを持つ曲である。最初「Loveless」を通して聴いたときに「何でこの曲が最後なんだろう」という違和感があった。元々「Glider EP」に収録されていた曲なので制作時期も微妙にずれているのだが、伝統的なロックの構造を逸脱した、まるで1枚の抽象絵画のような「Loveless」の世界観が最後の「Soon」で台無しにされているようにすら感じたからである。しかしこのシューゲイザーに当時大流行していたレイヴのグルーヴをミックスさせた、90年代初頭の英国音楽シーンを象徴するような曲があるお陰で「Loveless」が今から20年以上前の制作であることが実感されるわけで、後のポスト・ロックにも通じる先進性に改めて感嘆せざるを得ない。ハッピー・マンデーズプライマル・スクリームの曲のリミックスを手掛けたAndrew Weatherallによるファンキーでアグレッシブなリミックスも秀逸。

【この1曲】The Anchoress 「Popular」(2015)

スティーヴン・ウィルソン、アナセマ、テッセラクトと巷のプログレッシブな英国ロックファンのハート(となけなしの財産)をがっちりつかむことにかけて天才的な手腕を発揮し続けるKscopeが今回新たに送り出すのがThe Anchoressなる、ウェールズ出身のCatherine Anne Daviesのプロジェクトである。彼女はシンプル・マインズのツアーメンバーとしても知られているが、おそらく日本のUKロックファンには「マンサンのポール・ドレイパーがプロデュースした女性シンガー」と言ったほうがより通りがいいかもしれない。何しろポール自身がここ数ヶ月もの間Facebookツイッター他各種SNSを駆使してThe Anchoressを宣伝しまくっていたからな。おかげで数年前から出る出るぞと言われているポールのソロアルバムのほうはすっかりマンサンファンの間でも狼少年扱いで今や誰も話題にしていない。
Catherineは何種類もの楽器をこなすマルチミュージシャンであるだけでなく何とロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで英文学の博士号を取得しているとんでもない才女である。やはりマルチぶり(と清々しいまでのオタクっぷり)で日本のdjent界隈で絶大な人気を誇るSithu Ayeもセント・アンドリュース大の物理学修士だし最近の若手ミュージシャンは無駄に高学歴過ぎて笑うしかない。昔はマニックスのリッチーやニッキーが大卒ってだけで「ちゃんと卒業したんだスゲー」って思ったもんな。今は専業ミュージシャンとして生計を立てるのは大変な時代なようで、やはり別に副業をしようと思ったらそれなりの学歴が必要なんだろう。本当に世知辛い世の中である。

この「Popular」はThe Anchoressの来年1月リリース予定のデビューアルバム「Confessions of a Romance Novelist」からの先行シングルである。ポール・ドレイパーのプロデュースということで確かに音作りのところどころにマンサンっぽさを嗅ぎ取ることは可能だが、それ以上にCatherineという名前といい深窓の文学少女風なイメージといいやはりケイト・ブッシュと比較したくなる。英国には時々こういうお嬢の空気をまとった女性シンガーが現れるが、この人も随所にフェミニズムっぽい思想を感じるとはいえ見かけは今時清々しいまでの古風なインテリお嬢である。ただ、「Dreaming」あたりのケイト・ブッシュの狂気一歩手前のアーティスティックな情念と比較すると、どうしても経歴ゆえのアカデミックな理性のフィルターを感じてしまうしそこが現代的ともいえるし物足りないとも言える。Kscope関連で言うとやはり女性ヴォーカルということでiamthemorningやSe Delanあたりと近いところがあると思うが、よりポップで聴きやすいと思う。
その経緯から今のところマンサンの名前を出して語られることの多いThe Anchoressだが、同じウェールズ出身だしHall Or Nothingのマネジメントということでそのうちマニックスとの共演もあるかもしれん。何を隠そうこのCatherine自身がマニックスの大ファンで元々マニックスの影響で読書に親しみアカデミックな道を選んだのらしい。私の周りのマニックスファンもやたらと高学歴女性が多いんだが何故なんだろうか。三流私大卒の自分にはさっぱり理解不能である。
「なんであんたはそうやってすぐ話をマニックスに持って行くんだよ」といいたい人もいると思うが名前からしてそういう趣旨のブログなのだからしょうがないじゃん。

「Wings of Joy」Cranes(1991)

一般的に「ゴスロリ」は日本独自のサブカルチャーと言われているが、その起源をたどれば英国のゴシック文学や「不思議の国のアリス」に行きつくのだからイギリスにゴスロリ的なバンドがあってもおかしくはない。現在日本でも知名度のあるイギリスのゴスロリバンドはケイティ・ジェーン・ガーサイドを擁するクイーン・アドリーナだろう。しかし、ケイティがデイジー・チェインソーでUKインディーシーンの表舞台に登場する1992年より前に「ゴスロリ」的なバンドが既に存在していた。それが英国ポーツマス出身のクレインズ(Cranes)という、ジムとアリソンのショウ(Shaw)兄妹を中心とするバンドである。今でこそアナセマ(Anathema)のダグラス兄妹がいるが、兄弟バンドに比べると兄妹や姉弟という組み合わせのバンドはあまりいないんじゃないだろうか。このバンドも前回のコクトー・ツインズと同様、しばしばシューゲイザーのカテゴリーに入れられることが多いが、確かにシューゲイザー的なノイジーなギターが聞かれるものの、アリソンのヴォーカルが異常なほどの存在感を放っている点で、やっぱり他のシューゲイザーとはちょっと違う立ち位置にあったバンドじゃないかと思う。クイーン・アドリーナの「ゴスロリ」イメージはもっぱらケイティのルックスとキャラクターによっているところが大きいのに対し、クレインズの「ゴスロリ」性は主に音楽面に現れている。しかも「ロリータヴォイス」プラス「ゴシック・ロック」という単純足し合わせで笑ってしまうほどだ。しかしいざ曲を聴くとかなり不気味だ。以下に紹介する「Wings of Joy」は彼らの1stフルアルバム(1986年の「Fuse」はカセットオンリーなので除く)であり、ゴシック色の非常に強い作品である。

 

Wings of Joy

Wings of Joy

 

一般的にロリータヴォイスというとフレンチポップあたりの舌足らずでセクシーなウィスパーヴォイスみたいなのを想像する人も多いと思うが、このアルバムからはおよそロリータと聞いて想像される甘さやポップさは一切排除されている。ダークで憂鬱なメロディーで歌われるアリソンの幼女のような無垢なヴォーカルに重々しくのしかかるノイジーで凶暴なギターを聴くとまるで幼女監禁のような禍々しい雰囲気が漂っていて聴く時間帯を選ばないと夜にうなされそうだ。しかし密室的でどこか頽廃的な空気すら漂う幻想的な音世界は中毒性があり、怖い怖いといいつつ何度もリピートせずにはいられない魔性を秘めていると思う。
およそポップとは言い難い音楽性からか、それとも当時あまり本人たちが積極的にメディアに出たがらなかったからか、同時代にデビューしたシューゲイザーバンドたちが青田買い的に次々と日本の洋楽雑誌で取り上げられていたのに対し、クレインズはこの時期日本の洋楽誌に載ることはほとんどなかったと記憶している。私が彼らの存在を知ったのは英メロディー・メイカー誌の付録CD「Gigantic 2」というコンピレーションアルバムで、他の収録バンドもラッシュ(Lush)、ペイル・セインツ、コクトー・ツインズシュガーキューブスとなかなかに豪華だったのだが中でも一番印象に残ったのがこのクレインズだった(その次のバードランドの曲は期待外れだった(笑))のである。この時期にリリースされた作品はアルバム、EP含めジャケットデザインがいかにもゴシック的で美しくジャケ買いしたくなるものばかりだった。本作ではシングルにもなっている「Tomorrow's Tears」と最後の「Adoration」がメロディーがはっきりしていて聴きやすいと思う。
ちなみにCranesというバンド名、その幻想的で耽美な音楽性からきっと「鶴(crane)からとったんだろうと思ったら実は彼らの地元ポーツマスの港に林立するクレーン機(crane)からとったのらしい。夢もへったくれもない話だな。よって本当は「クレーンズ」と書くのが正しいんだろうけど、それじゃまるでインダストリアル系みたいだしやっぱり彼らのイメージにそぐわないよ。

「Treasure」Cocteau Twins(1984)

今から振り返ると80年代のイギリスにはやたら「耽美」なバンドが多かった。ニューロマンティクスやゴシック・ロック、ポジティブ・パンク等々。当時イギリスでは深刻な経済的不況に苦しんでおり、非現実的な世界に逃避したいという欲求が強かったんだろうと思う。もっともその「耽美」性の表出は様々であり、単に派手な化粧で誤魔化してるだけのバンドもあれば、純粋に音楽の審美性を極限まで追求したバンドもある。スコットランド出身のコクトー・ツインズは後者の代表格であり、80年代半ばのUKインディーロック(当時はニューウェイヴと呼ばれていた)界に多大な影響を及ぼしたバンドである。
元々コクトー・ツインズはゴシック・ロックから出発したバンド(バンド名自体はシンプル・マインズの曲からとられたらしい)であるが、現在ではシューゲイザーの元祖と言われることが多い。シューゲイザー全盛期の1990年初頭にそんな説が出ていた記憶は全然ないので、かなり時代が下ってからの評価だと思う。個人的にはシューゲイザーはもっとギターがノイジーだしヴォーカルはその轟音ギターの影に隠れて細々と歌われるイメージがあり、それに比べるとコクトー・ツインズエリザベス・フレイザーのヴォーカルが前面に出て圧倒的な存在感を放っているので、シューゲイザーとはやはり別物じゃないかという気もしないでもないが、マイブラやラッシュ(Lush)、スローダイヴ等代表的なシューゲイザーバンドの作風に共通する浮遊感あふれるドリーミーな世界観はコクトー・ツインズにその源流を求めてもいいとは思う。

Treasure

Treasure

 

 「Treasure」はコクトー・ツインズの3作目のアルバムであり、彼らの代表作でもある。デビュー当時はスージー&ザ・バンシーズのフォロワーと言われていた彼らだが、その後エリザベスの喉のトラブルを機に歌唱法を変え、透明感あふれるハイトーンの裏声とハスキーな地声を使い分けることで、まるで妖精か天使か女神が「天上界」と「地上界」をフワフワと行ったり来たりするような効果を生みだしている(発売当初は「神々が愛した女」という邦題がついていて、きっとこれはエリザベスのことなんだろうと思っていたが、さっき調べてみたら現在の邦題は「神々が愛した女たち」と複数形になっていて、なんか違うと思っている)。私が初めて「Treasure」からの曲をを聴いたのは某FM局の深夜の音楽番組(「FMトランスミッションバリケード」と聞いて懐かしいと思う方もいるだろう)で「Pandora」がかかっていたのを聴いて「こんな美しい世界があるなんて!」と衝撃を受けたのだった。ちなみにこのアルバムは男性や女性の名前が曲のタイトルになっているのだがそのほとんどがギリシャ神話からとられたものであるらしい(同じように人の名前を曲名にするにしても出典がゲームのVeil of Mayaの最新作とはえらい違いだな(笑))。但し冒頭の「Ivo」は所属レーベル4ADのオーナーのアイヴォ・ワッツからとられたということで、何故彼らがレーベルのボスにそんな義理を立てないといけなかったのかよくわからない。しかも無駄に美しい曲なんだよなこれが。
コクトー・ツインズの神秘性は、このようなエリザベスの特徴的なヴォーカルとロビン・ガスリーエフェクターをかけまくったサイケデリックなギターに加え、収録曲のエキゾチックなタイトルと、何を歌っているのかほとんどわからない歌詞(日本盤の歌詞カードはデタラメだと本人たちも苦言を呈していた)によるところが大きい。他に当時の4AD所属アーティストの一連のアルバムジャケットを手掛けていた23エンベロープによる審美的なアートワークも大いに貢献したと思う。しかし全英チャート7位というヒットを記録する「Heaven of Las Vegas」を最後にバンドが4ADを離れメジャーレーベルに移籍した後にリリースされた「Four Calendar Cafe」は本人たちの意向なのかレーベル側の要求なのか歌詞をはっきりと歌うようになり、それまでの彼らの最大の個性であった神秘性が損なわれることとなった。ひょっとして彼らも勝手にファンやメディアにつけられた神秘的で形而上学的でストイックなイメージで語られることにいい加減辟易していたのかもしれない。バンドは1997年に解散しているが、このようにシューゲイザーの元祖扱いされている現在、再結成を望む声は高いと思う。