sleepflower音盤雑記

洋楽CDについてきわめて主観的に語るブログ。

【この一曲】B'z「ultra soul」(2001)

今、B'zの「兵、走る」が数あるラグビー日本代表応援ソングの中でもとりわけ人気のある曲のようなのだけれど、その原点となるのが「ultra soul」であることは間違いない。「ultra soul」は2001年世界水泳@福岡の公式テーマ曲なのだけれど、当時の私は水泳にもB'zにも興味がなかったのでそのことを何年も知らないでいた。それでもあのサビを聴くとなぜか北島康介の顔が浮かぶので相当な刷り込み効果のある曲としか言いようがない。おそらくその後の世界水泳の番組でも繰り返し使われていたのだろう。水泳といいラグビーといいB'zのスポーツテーマの曲がウケるのはB'z自体がどこか体育会系なところがあるからだと思っている。実際ライブに「LIVE-GYM」と銘打ってるぐらいだからあながち間違いでもないだろう。 私はB'z本体のライブには行ったことがないのだけど2年前ぐらいにサマーソニック稲葉浩志スティーヴィー・サラスのユニットのは見たことがあって、50代とは思えない稲葉の体型と運動量に「何だこれ反則じゃん」と思ったものである。何が反則なのかは知らんけど。


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 これを言うと熱心なファンに殺されると思うけどB'zの良いところは適度にダサいところだと思う。そもそも彼らの楽曲のベースとなっているハードロックが本質的にダサいのだけど、そのダサさがもたらす安心感が彼らの安定した人気の秘訣と言ってもいいと思う。その「ダサさ」を内包する王道ハードロック路線の「兵、走る」に比べても「ultra soul」は何だか昔の歌謡曲的でさらにダサい。にもかかわらずB'zの数多いメガヒット曲の中でもとりわけ超人気なのはやはりあのサビがアニソンっぽいというか日本人の好みのツボをつきまくってるからなのだろうと思う。実際あのサビはくせになる。正直「さまよえる蒼い弾丸」なんかの方が全然カッコいいと思うのだがなぜか頭の中で無限リピートされるのはあの「ウルトラソウッ!」(それまでわたしはずっと「ウルトラショーック!」だと思っていた)なのだから恐ろしい。「いろんな曲に無理やり「ウルトラソウル」をつなげてみる」という動画がYouTubeニコニコ動画にたくさんアップされているのもそのせいなのだろう。しかもどの曲につなげてもほとんど違和感がないので笑ってしまう。さらにどう聴いても「週休二日欲しいのなら」と聞こえる個所がある。試しに「ウルトラソウル 週休二日欲しいのなら」というキーワードで検索してみたら出るわ出るわ。みんな考えることは同じだな。本当は「祝福が欲しいのなら」というのらしいが何回聴いても無理がある。もはやこれはクイーンの「キラー・クイーン」における有名な空耳「頑張れ田淵」のレベルに匹敵するであろう(←これを読んですぐに曲が浮かんだ人はジジババ)。とにかくこの「ultra soul」はキメキメのサビありの突っ込みポイントありの、普遍的な日本人好みのエッセンスが凝縮された名曲と言っていいと思う。

【この一冊】Sara Hawys Roberts and Leon Noakes 「Withdrawn Traces: Searching for the truth about Richey Manic」(2019)

マニック・ストリート・プリーチャーズ(以下「マニックス」)及びリッチー・エドワーズに関する伝記やバンドヒストリー本はこれまでにも何冊と出版されているが、「Withdrawn Traces」の注目すべき点はリッチーの実妹のレイチェルさんが全面的に取材協力をしている点である(彼女本人による序文も添えられている)。ところが海外のマニックスファンの間では本作については賛否両論どころか否定的な意見が多く、よくも悪くも「問題作」となっているようだ。

本書の主なポイントとしては以下のようなのが挙げられると思う。

①一般的に知られている「マニックスの失踪したメンバー」「苦悩と悲劇のロックスター」というイメージにとどまらない、素のリッチーの姿を浮き彫りにするために学生時代の友人やガールフレンドなど、マニックス関係者以外の人々に取材を行っている。

②リッチーの学生時代の作文や日記や愛読書の内容から失踪や逃亡、陰遁生活に対する彼の強い関心が窺え、彼の失踪は衝動的な自殺目的ではなく何年も前から念入りに計画されたものと考えられる。

③リッチーの失踪に対する当時の警察の対応は適切なものとは言えなかった。またマニックスの他のメンバーもリッチーの捜索に対してあまり協力的とは言いがたいものであった。

ところが①に関しては幼少時代や学生時代のエピソードよりも「The Holy Bible」期の言動や失踪前後の様子に多くのページが割かれているために、結果的に「素のリッチー」よりも拒食症やアルコール依存、自傷癖に苦しむ従来からのリッチーのイメージが強調された形になってしまってるし、②に関しては仮に著者の主張の通りどこかで生存していたとしたら彼の家族やバンドメンバーに何十年も多大な悲しみを与え続けているわけでそれはリッチーの性格上最も考えにくいことであり、③に関してはバンドに対する中傷以外の何物でもない、という問題が指摘されている。確かに本書における著者の膨大な取材量と緻密な調査力は称賛に値するものの、それらから導き出される結論の部分において若干勇み足の部分があることは否めない。本書では「この事からリッチーは~ということを考えていたのではないか?」「もしもリッチーが~でなかったら違う展開になってたのではないだろうか?」という疑問形の推論が繰り返し登場するが、むしろ読み手側からすると「え、何でその資料からその推論が引き出されるの?」と戸惑う部分が多く、著者は執筆当初からリッチーについて特定の結論を持っていて、友人の証言や学生時代のエッセイなどの参考資料は著者の考えるリッチー像に合うように意図的に選択されたのではないかとすら思うほどだ。しかし「リッチーの真の姿を知ってほしい」という著者(及びレイチェルさん)の狙いが却って従来からの「破滅的なロックスター」のイメージを強調される形になったとしても、それは著者達の落ち度ではなく元々リッチーの性格や考え方が伝統的なロックカルチャーが象徴するものと著しい親和性を持っていたからで、彼の「真の姿」を追おうとすればするほど彼が「ロック神話」と不可分であることを痛感するのではないかと思う。リッチーの天才的な面と同時に厄介な面があるとすれば、マニックスという存在をバンドでなく一種の「作品」や「象徴」のように捉えていた所だろう。例の「解散宣言」もリッチーの理想である「若くて美しいまま消える」の具現化に他ならない。本書ではリッチーと他のメンバーとの間に度々意見の不一致があったと主張されているが、リッチーと違い他のメンバー達はマニックスを「象徴」などではなくリアルの「キャリア」と考えていたのだとしたらそれはもっともな話で、他の仕事を持たずにバンドに専念する以上できるだけ長く活動したいに決まってる。それを妥協であるとかリッチーに対する裏切りと言うのは少々ジェームズ達に対して酷ではないだろうか。著者はバンド側がリッチーの捜索に非協力的だったのではという示唆をしているが、彼らも小さい頃からの親友とはいえリッチーの家族と同レベルで四六時中彼の捜索に手を尽くすのは彼ら自身の生活もある以上非現実的だと言わざるを得ないし、何かとリッチーを語る事で彼の失踪をエンターテイメントとして消費されたくないというバンドの姿勢こそ、リッチーに対する真の思いやりでありリスペクトではないかと思う。

Withdrawn Traces: Searching for the Truth about Richey Manic, Foreword by Rachel Edwards

Withdrawn Traces: Searching for the Truth about Richey Manic, Foreword by Rachel Edwards

 

この本にはリッチーの愛読書から彼の思想や行動を読み取る試みや、失踪後にホテルで発見された小箱の内容、シド・バレット(元ピンク・フロイド)との性格的な類似性の指摘など興味深い記述は多いが、中でも最も心を打つパートは最終章のレイチェルさんによる、失踪直後から現在までのリッチー捜索に関する種々のエピソードである。警察を何度も訪ねたり海事沿岸警備庁や英国水路部といった河川を管轄する機関にも問い合わせたりイギリス国中の修道院に手紙を出しまくるなどあらゆる手を尽くして兄の消息の手がかりを得ようとしたにも関わらず全て徒労に終わってしまったこと、ガンを患い余命いくばくもないことを知った父と一緒に兄の死亡宣告を受けに行った下りは彼女の心情を思うとこちらも辛くなってしまう。失踪者家族会の代表として国内の様々な活動に精力的に参加し「起きて最初に考えるのも、寝る前に最後に考えるのも兄のことです。彼の消息が本当にわかるまで私は諦めません」と言うレイチェルさんを見ると、リッチーを一番愛しているのは結局レイチェルさんで、彼が人に絶えず求めていた「愛」もこのような絶対的なものだったのではないかと思われるのである。

先程この本には賛否両論あると書いたけれども、少なくともリッチーがどんな人だったかをファンに改めて考えさせた点でこの本の試みは成功していると思う。しかし何しろリッチー以外のバンドメンバーに批判的な含みを感じる本なので、「Everything: A book about Manic Street Preachers」(Simon Price著)等定評のあるバンドヒストリー本を先に読んでから本書に当たった方が良いと思う。本当はどちらも邦訳が出てほしいのだけど、日本におけるマニックス知名度を考えると難しいのかな。

 

「Hot Space」Queen(1982)

映画「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットで現在日本でも空前のクイーンブームなのだけれど、クイーンが何故世界で最も早く日本のファンに注目され現在も続々と若いファンを増やしているのかというとひとえに彼らが「日本で受ける要素が揃っているバンド」だからなのだと思う。その要素とは①印象的なメロディーを持つ楽曲が多く一回聴いてその良さがわかる②それぞれが高レベルの演奏力を持っているという音楽面での長所に加え③ルックスに華があり、かつメンバー全員のキャラが立っているというもので特に③は後にジャパンやチープ・トリックなどがやはり日本先行で人気が出たように重要な要素だと思っている。単に「ルックスが良い」というのとは少し違う。同時代の類型的なイケメンのアイドルバンド達と違い、クイーンの場合デビュー時に盛んに「少女漫画の世界から飛び出してきたような」と形容されたように彼らのキャラクターは「漫画的」というか「漫画にしやすい」のである。実際私も中学時代クイーン漫画描いたことあるしな(笑)。それにしても「漫画的」ならともかく「少女漫画的」というのはいくらなんでも無理がないだろうかと思ってしまうのは私だけではあるまい。こういうことを言うと熱心なクイーンファンから石を投げられるかもしれないけれど、私の記憶では当時のクイーン、特にフレディ・マーキュリーについてはもっと「いじられ」の要素が強かったのだ。クイーンをいち早く日本に紹介しその後もクイーンを熱心に取り上げ続けた「ミュージック・ライフ」誌の名物コーナーであった「He Said, She Said」というML読者によるネタ投稿のコーナーでもフレディは人気者(?)でやれ出っ歯だのナスビだのと散々いじられていた(ブライアンの病弱ネタやジョンの存在感のなさネタやロジャーのデブネタもあった気がする)のだけれど、それらも彼らの持つ親しみやすさ故の現象であるから映画の影響で「伝説のバンド」的に語られてる現在もやはり無視してほしくない面だよなぁと思ってしまうのである。

ホット・スペース

ホット・スペース

 

 この「Hot Space」はクイーン作品の中で問題作と言われているアルバムで、発売当時のレビューも結構荒れていた記憶がある。映画の中でも殆ど無視されていたしバンドやファンの間でも多分「黒歴史」みたいな扱いなんだろう。何でわざわざそんな作品を取り上げるのかと言えば、単に本作が私がリアルタイムで聴きだしたクイーンのアルバムだからである(笑)。この作品が出た1982年やその前後は70年代の大物と言われたアーティストが時代の変化に対応するために音楽面でも試行錯誤的なアルバムが多く出ていた時期でもあり、デヴィッド・ボウイの「Let's Dance」(1983年)もリリース当時はやはり好意的な評価ばかりというわけではなかった記憶がある。今から聴き返せば「こういう試みもあっていい」という前向きな感想になると思うがやはりリリース当時は「え~そっちに行っちゃうの?」感が強かったのではないだろうか。一言で言ってこのアルバムは物凄くR&Bやファンク色が強くてそれまでの「クイーン・サウンド」を期待すると手痛く裏切られる内容である。冒頭の「Staying Power」からしてホーンセクションとシンセがフィーチュアされたファンキーな曲で「あれ~ブライアンのギターはどこー?コーラスはどこー?」となると思う(実はギターもコーラスもあるのだけれど全く「クイーン的」ではない)。前半(当時はA面に相当する部分)はずっとこんな調子でファンキーで黒いノリの楽曲が続くので正直辛いという人も多かったのではないだろうか。しかしフレディのパワフルなヴォーカルはこれらファンク色の強い楽曲群においても圧倒的であり、彼がロックの枠組みの中に納まらないスケールを持ったヴォーカリストであったことが皮肉にもこの作品によって証明されたところもあると思う。本作はロックとR&Bの垣根を超えたと言われるマイケル・ジャクソンの「Thriller」に影響を与えたアルバムと言われているが、そういう意味では本作は少し世に出るのが早すぎたアルバムと言えるのではないだろうか。しかしさすがにこの路線で進み続けるのは難しかったようで、その次の「The Works」は往年のクイーンらしいロックアルバムで収録曲「Radio Ga Ga」の大ヒットもありファンにも好意的に受け入れられたアルバムだが本作の後ということで「守りに入ってる感」が気になった作品でもあった。やはり「Hot Space」はクイーン史において無視できない貴重な位置づけのアルバムではないかと思う。

【これを見た】Paul Draper日本公演(2019/Mar/6-Mar/10)

90年代ブリットポップ終焉期に独自の世界観をもつ楽曲群で日本でも人気を博していたマンサン(Mansun)のフロントマンであったポール・ドレイパー(Paul Draper)のソロとしての初来日である。マンサンとしての最後の来日から19年経っているから当然ファンはマンサン時代の曲を期待するし本人もそれを今回の公演の目玉の一つにしていたが、「おいちょっと待て」とツッコミを入れたくなったのは私だけではあるまい。3年前にKscopeと契約しその1年後にアルバム「Spooky Action」でソロアーティストとして再スタートし、マンサン時代からのファンのみならずKscopeが標榜する現代プログレファンからの注目を得つつあるというのに最初から過去の遺産に頼るのかよ、というのがその理由である。彼がたまにゲストとしてツアーに帯同するスティーヴン・ウィルソンも今のラインナップでポーキュパイン・トゥリー時代の曲をやらないわけではないけれど、あくまでそれはオマケ的な位置づけ(強いて言えば「自分の好きなPT時代の曲」)だし決してPTを売りにしているわけではない。「ソロアルバムはまだ1枚しか出してないんだから仕方ないだろう」という意見もあるだろうけどポール・ウェラーがセルフタイトルの1stアルバムを出したすぐ後の来日公演は既にセットリストの大半はソロアルバムの曲で占められていたし後に2ndアルバム「Wild Wood」に収録される曲も数曲披露されていた。評価の定まっている過去のバンドの楽曲に頼ったほうが楽なのはわかるがそれを敢えて封印して先に進もうという気概はないのかね、と毒づきたくもなる。そりゃ私もマンサンのファンであったからマンサン時代の曲をやってくれるのはうれしいけれども、それをツアーの売りの一つにしてしまうと今度は足りないものばかりが見えてきてしまう。いつぞやのドリーム・シアターの「Images and Words」完全再現ツアーの時でさえマイク・ポートノイの不在が気になったぐらいなのだからポールが今後「Six」再現ツアーやるとか言ってるのを見ると「やっぱりチャドやストーヴやアンディがいないとさー」とか「そこまでマンサンの曲再現にこだわるならルックスもマンサン時代の王子キャラに戻す努力ぐらいしろや」とか思っても罰は当たらんだろうと思う(←熱心なファンからは思いっきり石を投げられるかもしれないけどな)。

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ここまで散々ボロカス貶してきたけれども今回の来日公演自体はとても良かったのである。今回の公演の個人的な注目点として「シンセサイザー主体の、スタジオ技術を駆使したSpooky Actionの楽曲がアコースティックでどのように表現されるのか」というのがあったのだけど、スタジオ盤でのサウンド面の実験的な要素が省かれている分楽曲が本来持つメロディーの美しさやヴォーカルの伸びやかさが前面に押し出された仕上がりになっていて非常に感銘を受けた。「EP One」収録の比較的ストレートなギターロック曲の「The Silence is Deafening」はともかくアルバム冒頭のエキセントリックでカオティックな「Don't Poke the Bear」などアコースティックでどう再現するんだろうと思っていたのだけど、ギターだけで歌われるのを聴くと意外にオーソドックスなロックナンバーであったことは興味深い発見であった。何しろポールの豊潤で力強く伸びていく中低音域のヴォーカルには終始感心させられた。マンサン時代はどちらかというとファルセットを多用した高音域に特徴があったし何よりも歌唱力以上にアグレッシブなステージパフォーマンスが印象的だったので、ポールがここまで歌える人、歌唱力だけで勝負できる人であったということに気づけたのは一つの収穫であった。それが現在の彼の体型と関係があるのだとしたらもう今後無理してダイエットしなくていいんじゃないかとすら思う。実のところポールに関してはマンサン時代のいかにもの華奢で中性的な王子系美青年キャラより現在のデブいヒゲのオッサンのほうが全然好みである。またマンサン時代はMCも少なくチャドからも「ポールは1%も感情を表に出していない」などと言われていたものだけれど、今回の来日公演でビールを何缶も飲みつつ上機嫌で各曲のエピソードを長々と語りまくるポールを見て「このオッサンは、あのマンサンのポール・ドレイパーと同一人物なんだろうか?」と何度も自問自答せずにはいられなかったが、若い頃の外見的イメージにこだわらず純粋に楽曲のクオリティと歌唱力で勝負していこうという彼の姿勢は大いに歓迎できるものであった。

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今回のツアーではギタリストであり現在のポールの音楽的なパートナーであるBen Sinkを連れてきていた。ポールに「12歳だよ!」といじられるぐらい童顔の可愛らしい風貌の若者であるが、ギターの技術はしっかりしておりマンサン時代の曲のギターパートもほとんどチャドのニュアンスを忠実に再現しつつ弾きこなしていたと思う。Benに対するポールの信頼感が絶大なのは客席から見ても明らかで、実際4公演目の土曜日(3/9)の東京公演では喉の調子が絶不調で高音域のパートで苦しそうなポールを心配そうな表情で見守ったり途中で飲み切ってしまった喉のケア用ハーブティー(この日はビールは抜きだった)の追加を作るためにわざわざステージを出るなど甲斐甲斐しくポールのケアをするBenの姿が印象的だった。しかしポールのギターに絡まったコードまでBenに解かせるのを見て「何だこの何もしないオッサン上司のために走り回る新人くん状態は」と思ったのも事実で、この若者が今後良い意味での自己主張ができるといいなと願わずにいられない。

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演奏自体は非常に良かった(4日目の喉の絶不調も途中で演奏中断せず観客の合唱のサポートを得つつも最後まで演奏しきったのは立派だったと思う)し新しい発見もたくさんあって、今回無理して全公演行ってよかったライブだと心から思えるのだけれど、やはりセットリストを見返してみて13曲中8曲がマンサン時代の曲というのはあまりにバランスが悪い。今回会場に集まったファンの中にはマンサン時代を知らない若い人もちらほら見かけたし、私のTwitterのフォロワーさんの中にもKscope経由でポールに興味を持ったという人が出てきておりソロアーティストとしてのポール・ドレイパーがもっと聴きたいというニーズは確実にある。次のツアーからは「Six」完全再現という話が出ているけれども「いやそれより2ndソロアルバムの曲が先でしょ?」「そこまでマンサン作品の完全再現にこだわるならルックスも当時の完全再g(以下略)」と思ってしまうのは私だけじゃないと思うなぁ。

【この一曲】Bring Me The Horizon「mother tongue」(「amo」(2019))

で、早速先日リリースされたばかりのBring Me The Horizon(以下「BMTH」)の6thアルバム「amo」なのだけど、実はこのアルバムが2019年初頭にリリースされるという話が前年の夏に出たときに「オリバー(Oliver Sykes)がインタビューにて、新譜「amo」(←「愛」という意味)には自身の離婚が反映されていることを発言」という記述を見て物凄く既視感というか嫌~な予感がしたのだった。だって別離がきっかけで作られた、「愛」がテーマのアルバムと聞いたらMansunの「Little Kix」じゃん(←BMTHの記事見てそんなこと考えたの多分私だけだっただろうな)。しかもオリバー既に再婚してるしどうせ「前は離婚で痛手を負ったけど今は新しい愛を得て幸せさ~」みたいな展開な、甘々メロディー満載のポップアルバムなんじゃないの?と物凄く捻くれた見方をしたものである。しかし実際に「amo」を聴いてみるとニュースリリース当時のこの捻くれてると思われた推測もあながち間違いではなかったと思うのは自画自賛だろうか(笑)。「MANTRA」(←何故かこの曲だけ大文字)「wonderful life」「suger honey ice & tea」みたいな前作「That's the Spirit」の延長的な位置づけの曲もいくつかあるものの例えば「ouch」「fresh bruises」みたいなエレクトロニカ丸出しの曲を聴くと「おいちょっと待て一体どこへ行くんだよ」と思ってしまうし「medicine」はキャッチーだけどロックというより最早ポップだし極めつけは「heavy metal」というタイトルなのに「残念これ全然ヘヴィーメタルじゃないw」みたいな内容なので前作までは何とかついてこれたファンも音だけ聴くと「え~これどうしよう」という印象になってしまうのではないだろうか。しかしその「ouch」、実は歌詞を見ると前作収録の「Follow You」の歌詞の一部を借用していてしかもそれがオリバーの離婚した前妻でタトゥーアーティストのハンナに対する当てつけみたいな毒たっぷりの曲なので侮れないのである。ハンナとの別離をテーマにした曲は他にも「medicine」「in the dark」等何曲もあって「よほどトラウマだったんだろうなぁ」と思われるのである。まあこのブログのメインの読者向けに例えて言えば彼らはデーモン・アルバーンジャスティーン・フリッシュマンみたいなパワーカップルだったので、離婚の精神的なダメージもそれだけ大きいことだっただろう。まあ色々言いたい放題したけれども何だかんだで私は今回の新譜は気に入っているのである。恐らく今のBMTHはクイーンやU2みたいな、特定のジャンルで語られることを必要としない普遍的なバンド(最早バンドですらなくコンセプトかもしれないが)になりつつあるのだろうし、この際次のアルバムもこの調子で突っ走って毎回ファンを挑発してもらいたいものである。本来彼らのようなバンドこそ「プログレッシヴ」という形容がふさわしいのだけれどね。


Bring Me The Horizon - mother tongue (Official Audio)

この「mother tongue」は当初私の邪推に近い予想の「今は新しい愛を得て幸せさ~」の部分に相当する曲で、オリバーが一昨年に結婚したブラジル人モデルのアリッサの事を歌ったこれまたキャッチーでポップな曲である。歌詞の中に「So don't say you love me; fala, "amo"」という一節があり、ある意味この曲がこのアルバムのタイトル曲的な位置づけと言ってもいいだろう。「英語でなくて、君の母国語で愛を語ってよ」という内容の曲なのだけれど、「fala, "amo"」はアリッサの母国語であるポルトガル語で、本来ならここは「fala, "te amo"」(「愛してる」と言って)だったんじゃないかと思うのだけど歌に乗せるときにフィットしなかったのかもしれない。実はこの新譜のタイトルが「amo」と聞いたときに「何だPhoenixの「Ti Amo」みたいじゃん」と思ったのだけれどPhoenixの「Ti Amo」はイタリア語なので、同じ「amo」でも言語が違うのである。でもこの今回のBMTHの新譜、「Ti Amo」が好きな人が聴いても多分違和感ないと思うよ(笑)

「That's the Spirit」Bring Me the Horizon(2015)

最初にBring Me the Horizon(以下「BMTH」)という名前を見たのは確かBullet For My Valentine(以下「BFMV」)のいつぞやの来日公演(←調べたら2010年だった)の時のスペシャルゲストとしてだったと思う。その時の来日公演は見逃してしまってその後しばらく忘れていたのだけど、その次にBMTHの名前を見たのは2016年のNMEアワードでヴォーカルのOliver Sykesがバンド演奏中にコールドプレイのテーブルに飛び乗ったというニュース記事であった。この記事を見て最初に思ったのは「そもそもBMTHってNMEアワードに出るようなバンドだったの?」ということである。元々がデスコアから出発しているのでBFMVとも系統が違うのだけどどちらかというとKerrang!やMetal Hammerで扱ってる領域のバンドだろうから、これらとは全く畑違いなNMEのイベントに呼ばれることにとても違和感を覚えたものだ。それがその年の夏にBBC Radio 1だか2だかで放送していたグラストンベリー・フェスティバルのプレビュー番組でBMTHの「Avalanche」を聴いて「これ、いいじゃん」と一気に引き込まれてしまった。それでやっと当時の新譜だった通算5枚目のアルバム「That's the Spirit」を聴いたのである。リリースから約1年経ってたから何とも遅い反応と言わざるを得ない。そもそも最初に名前を見てから実際に曲を聴くまで実に6年かかっているのだからその間の音楽的な変遷をリアルタイムで体験できず機会損失半端ないと言ってもいいかもしれない(涙)。

That's The Spirit [Explicit]

That's The Spirit [Explicit]

 

 一聴した印象は非常にキャッチーでかつスタイリッシュなアルバムだということである。収録曲の完成度が軒並み高くそれまでこの界隈のジャンルに疎い新規ファンをしっかり取り込む吸引力があると思う。しかしダサい所が皆無というか同郷のBFMVやAsking Alexandriaのような伝統的HM/HR的要素を一切引きずっていないところが何とも落ち着かない(元々私はSykesと聞くとOliverよりJohnを先に連想してしまう古い世代の洋楽ファンである)。既に数々のレビューにある通りデスコアの初期から叙情系メタルコアの前作「Sempiternal」までの比較的緩やかな変化と違いジャンル自体が変わってしまったような変貌ぶりなので、正直ついていけなくなったという初期のファンも多いのではないだろうか。よくデスコアやメタルコアのバンドでボーカルが途中で喉を壊してスクリームが辛くなって次第にクリーンの割合が増えていくという変遷をたどるバンドは割と多いのだけど、このアルバムでは「ボーカルだけでなくギターを弾くのまでつらくなってしまったのか?」と思ってしまうぐらいヘヴィーなギターが激減してしまっている。しかしBMTHの凄い所はここまで音楽性をオルタナティブ・ロックに寄せておきながら決して他バンドの丸パクリにならずしっかりBMTHの音楽となっているところである。最近本作(および前作「Sempiternal」)に影響されたとみられる他バンドの作品のリリースが目立つが、それらが昔からのファンからは必ずしも歓迎されていないことに比べると本作の持つ「これは必然的な変化だ」と言わんばかりの説得力は大したものだと思う。シンセサイザーの入れ方が他の同ジャンルのバンドとは比較にならないほどスマートだというのもあるのだけれど、彼らもまた「どんなアレンジにも耐える普遍的な魅力を持つ曲が書ける」数少ない人たちなのだろう。願わくば日頃NMEで取り上げられるようなバンドのファンの人たちにも聴いてもらいたいアルバムだけれども少なくともここ日本においてはそのような動きはあまりなくて寂しいものがある。過去の記事でも何度か触れているけれどどんなに音楽性が大きく変化しようとも結局は元々の出発点のジャンルに大きく影響されてしまうのだろう(BMTHと同じぐらい音楽的変化を遂げているバンドにAnathemaがあるけれどやっぱりファンの多くはメタル畑だもんなぁ。まあ彼らの場合はそのお陰で来日できるぐらいはファンを確保できているのだろうけれど)。しかしどんなにメインストリーム路線に寄せてもどこぞのバンドと違って英国出身らしさを捨ててないのはUKロックファンには好感が持てる点だと思う。実はこの後のアルバム「Amo」で彼らはさらに「何じゃこりゃあぁぁ」的異次元の展開を見せるのだけどそれについてはまた後日(←書くのか?)。

「Dare」The Human League(1981)

前回がABBAだったので今回は「エレクトリック・アバ」と言われたこともある英国シェフィールド出身のエレクトロ・ポップバンドのヒューマン・リーグを取り上げたいと思う。元々ホール&オーツがきっかけで洋楽の世界に入った小学生の私をたちまちUK派にしてしまったバンドがヒューマン・リーグであった。ちょうど「愛の残り火(Don't You Want Me?)」が全英チャート1位を獲得した頃である。当初ホール&オーツ 目当てで買った「ミュージック・ライフ」誌にヒューマン・リーグの「Dare(当時の邦題は「ラブ・アクション」)」の広告が載っていて、その斬新かつオシャレなデザイン(「ヴォーグ」誌の表紙を意識したらしい)に「さすがイギリスだな」とにわかに興味を持ったのである。女性が2人いるだけでエレクトリック・アバというのも安易な気がするが当時の彼らの勢いが世界各国で数多くのヒット曲を連発してきたABBAになぞらえたくなる気持ちはわからないでもない。元々ヒューマン・リーグは男性4人組で出発したバンドであるが、アルバム2枚リリース後イアン・マーシュとマーティン・ウェアーがバンドを脱退してヘヴン17を結成し、残ったフィル・オーキーとエイドリアン・ライトが女性2人(ジョアンヌ・キャスロールとスザンヌ・サリー)と男性2人(イアン・バーデンとジョー・キャリス)を新たに加えて新ヒューマン・リーグとして再出発したものである。当時の写真を見てもわかるように4人組時代のいかにも暗黒UKニューウェイヴみたいな雰囲気からうって変わって華やかでファッショナブルなイメージを大胆に押し出したことは当時イギリスで全盛期を誇っていたニューロマンティクス の流れにもうまくマッチしたといえる。ニューロマといえばこの時期のヒューマン・リーグの連中(っていうかフィルと女性2人)の化粧はケバかった。フィルに至っては謎のワンレン長髪(当時はロップサイドという言い方をしていたと思う)にツタンカーメンみたいなヘヴィーなアイメイクなものだからインパクトは相当のものであっただろう。当時小学生だったわたしもワンレンボブを伸ばしてフィルみたく前髪ダラリをやろうと思ったのだがそんな髪型が小学校で許されるわけがなく即撃沈した。ヒューマン・リーグは1982年に初来日しているが、その時の取材に対する彼らの態度が最悪だったと毎年恒例の「ミュージック・ライフ」の年末企画である編集部座談会で暴露されている(取材担当に「今までこんなに印象の悪いインタビューはなかったわ!」とまで断言されたほど)。まあ当時「愛の残り火」が全英チャート制覇に続き全米チャートも制しつつあるという状況にあって多少天狗になってしまったのもわからないでもないが、よくよく聴いてみればフィルの歌はヘタクソだし、女性陣もさらに輪をかけて下手だし、しかもあのメイクがなければルックスも皆微妙だからMLの連中も白けてしまったんだと思う。しかし彼らの場合そのヘタさ加減が却ってシンセサイザーの無機質な音にマッチしていた上にフォトセッションやPVやアルバムジャケットのデザインまで「クールでオシャレで華やか」という彼らが意図したイメージで統一されていたのには感心するし、「愛の残り火」の大ヒットも元々曲のキャッチーさが最大の魅力とはいえこういったイメージ戦略による相乗効果は無視できないと思う。「愛の残り火」で女性ヴォーカル部分を担当したのが当時フィルのGFだったジョアンヌではなく金髪のスザンヌのほうだったのは偶然だったのだろうか。多分あれがジョアンヌだったらフィルとのラブラブ臭が鼻について彼らの「クールでオシャレ」なイメージが相当損なわれたんじゃないだろうか。そういった絶妙なバランス感覚も好感が持てるものである。それだけに現在の彼らの中年丸出しの体型を見ると「もうちょっとイメージに気を使えや」と思ってしまうのはわたしだけではあるまい。

Dare: Deluxe Edition

Dare: Deluxe Edition

 

先ほどヒューマン・リーグはイメージ戦略で成功したと書いたばかりなのだがこの3rdアルバム(4人組時代から数えると3rdになるのである)に関して言えば印象に残るメロディーの曲が揃っておりクラシックなアルバムだと言えると思う。「愛の残り火」「ラブ・アクション」「The Sound of the Crowd」「Open Your Heart」等有名シングル曲は多いが個人的にはいかにもUK産らしい哀愁感あふれる美メロとクールなシンセサイザーが魅力の「Darkness」が好きである。この後ヒューマン・リーグが2度目の全盛期を迎えるのが例の「Human」の全米No.1ヒットなわけだが「Human」およびこの曲が収録されている「Crash」というアルバムは当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったヒットメーカーのジミー・ジャム&テリー・ルイスのプロデュース(ジャネット・ジャクソン等で有名)で、ファンキーなのに泥臭くなく都会的で洗練された音作りはたしかに聴きやすく個人的には好きなのだけれど、ヒューマン・リーグの作品というよりはジャム&ルイスのプロデュース作品のひとつという立ち位置なので「Dare」のようなクールなUKっぽさは微塵もない。その後の全英ヒット曲「Tell Me When」(1995年)は「Human」の頃のR&B色はほとんど消え「Dare」時代からのヒューマン・リーグらしさを彷彿とさせるクラッシーな作品である。基本的に彼らの曲は今から聴くといかにものチープなシンセサイザーが80年代臭半端ないのだけれど、どの曲からも感じられるオプティミスティックなオーラは今のアーティストの作品からは得難いものかもしれない。